社会は分断されている

 

土曜日の朝はあまり好きじゃないです。だいたい前の日の晩にお酒を飲んでいるせいで、頭がぼーっとするからです。

 

要は、土曜日がわるいわけじゃなくて、酒を飲みすぎてしまう自分がわるいだけなんですが。

 

なんでもよい前置きでした。

 

さて。

 

この頃感じるのは、世界というのは分断されているということですね。世界、分断、というと、なかなか迫力がありますね。

 

世の中っていうのは、自分が思っていたよりもバラバラなんだなということですかね。

 

家庭やら学校やら会社やらでも、

 

あるいは、スポーツチームや前衛的アート集団でもあっても、

 

それぞれのルール、マナー、常識、世界観のようながありますよね。

 

 

そういうものの違いで、全然、ぜんっぜん、コミュニケーションの取り方や行動の仕方、着るもの食べるものから、何もかもが違うんだなと思いました。当たり前のことですけど。

僕はもう少し人と人は分かりあえるものだ、という信念に生きていたところがあったのですが、そういう姿勢をもっていることが大事だと思っていたのですが、

世の中を生きていくには、もうすこし別のやり方も選択肢として取っておく必要がある、と感じることが増えました。


こちらは相手を理解しようとしたり、リスペクトを持っていたとしても、相手がこちらにそういうのがないどころか、人して扱われなかったり暴力的な態度を見せつけられることがあります。


そういうときに、こちらが相手を理解しようとする姿勢は、自分にとって不利に働いたりします。

 

なんというか、それはコミュニケーションの取り方はの一つでしかないということに気づいたんですね。

相手も同じようにこちらを大事にしようとする姿勢があってはじめて、コミュケーションや活動が、合理的や効率的に成り立つ。

逆にいうと、相手からのリスペクトという条件がないと成り立たない。

そして、こちらが相手をリスペクトをしているということを利用されたり、つけ込まれたりするんだなということ。
 

リスペクトがある人にはリスペクトを持って接するべきであるのですが、リスペクトがない人にはどうやって接せるべきなのだろうか、という課題があるんですね。

そういうのを考えたときに、
なかなか抽象的ではあるのですが、

世界というのはたしかに一つではあります。ですが、その中にあるそれぞれの「社会」というのは、接していることもあれば、はっきりと分断されていることもあるんだなということですね。


具体的には、

東京とか大阪とか地理的なものもそうですし、

公務員とか広告マンとか職業的なものもそうですね。

 

 

まあ、そんなところです。

なんとなくキーワードとしては、
非暴力不服従、愛の反対は無関心、とかですね。


暴力的な人間の言うことは聞かない。


だけど、力があるとなかなかそうも言ってられない。


じゃあまあ、無関心になるか。


うーんでも、ちょこっとだけ愛は残した方がいいのかなぁ。

 

そんなかんじで、
考えを巡らせております。

それでは