何も物を知らないということを痛感するようになりました。ハイビスカスやらステンカラーコートやらスズキのスイフトやら、そういうもの。名前は聞いたことがあったけど、実際の物は知らなかったりする。
たぶん、それぞれ見たことはあっても、この花、その服、あの車。そんな感じ。
この花、その服、あの車と、ハイビスカス、ステンカラーコート、スイフトが同じものであると認識するのには、僕の人生の中では比較的最近の出来事だったんですね。
仕事をはじめてからとか、文章を意識的に書きはじめた、比較的最近の話なんです。
別にそれでも生きてきたし、それでも生きていけるのだから、特に問題はないんですけど、
街を歩いていて、そこにある植物の名前もわからず、花としか、木としか、答えられないことに、なんというか、すこしさみしさ、かなしみが湧いてきたんですね。
逆にいえば、物を覚えていくことで、同じ景色を見ていても感じることが変わっていくんだなと思いました。
たとえば、田舎の水田の風景なんていうものは、用水路があって、あぜ道があって、稲が植えられていて、地方であればどこにでもある風景なのですが、
用水路に水が入る前には、自治会でおじさまやおばさまたちが、しぶしぶ、みぞの泥や草を取り除いたりだとか、
田植えをしているおじいさまやおばあさまが、60代だとか70代だったりするので、この風景が見られるのも、あと10年もないのだろうかと、
いろいろとそこに付随する、ストーリーというか、お話というか、そこに至るまでのプロセスというか、人の営みがあるわけで。
同じ景色を見ていても、同じ景色が巡ってきても、全く同じものはなくて、その自分の変化の分だけ、変わっていく風景がそこにあるんだろうなと。
(実際に田んぼがスーパーになったり駐車場になったりという変化もあるのですが)
そんなこんなで、少しでも、自分の感じたものを表現できるようになれればいいな、と思います。
それでは