兵庫県について

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昨日、テンションの高い文章を投稿していて、この件の本題について、語ることはありませんでした。

 

僕は今、わけあって、兵庫県の歴史や文化についていろいろ調べています。なんというか、この県については、ただただ羨ましいなと思うわけです。

 

どういうことかというと、京都にしろ、大阪にしろ、歴史の中心に存在したという事実は、脈々と次の世代受け継がれていくのだなということです。

 

兵庫県でいえば、神戸の発展や、有馬温泉の歴史やら、阪神工業地帯の発展やら、いろいろあるのですが、歴史の中心に存在したということ。

 

鎖国と開国やら、豊臣秀吉の湯治やら、メジャーな日本史に一枚噛んでいるということ。

 

対して、僕の地元は正直、歴史の中心になんて存在したことはなく、辺境の地として、かろうじて、地元の町が編纂した読み物としてフレンドリーとは言いにくい郷土史があるのみ。

 

そういうわけもあって、兵庫県について知れば知るほど、いかに歴史の中心にいたことを感じ、中心にいなくてとも、メジャーな歴史の流れとのつながりがたくさんあるということ。

 

たぶん、僕は、そういう世の中の流れの中心とか、メジャーなものとのつながりに対して、ひがみや憧れがあります。

 

そしてたぶん、自分には関わることのできないものとして、どこかずっと今までの人生であきらめてきたようなところがあります。

 

まぁ、なんらかのしかるべき努力をすれば、その中心に関わることはできるのですが、どこか自ら距離を取っているところがあります。でもやっぱり、興味はずっとあるんです。

 

そういうめんどくさいところに、いつも自分のポジションを置いているんだなと、この頃気がつきました。

 

だから、これからどうするということはないのですが、当面僕は、こういう中心に関わったり、距離を取ったりということを繰り返すのだと思います。

 

癖みたいなものでしょう。

 

今日はこのへんで失礼します。

それではまた