定点観測について

 

 

定点観測というものがある。その言葉をはじめて聞いたのは、とある友人がとある学生交流会を称してそう言った。

 

学生というのは、理想に燃えている一年生がいて、就職活動にあえぐ三年生がいて、というような形で人間は違えども、同じような経路を辿る。サークル活動に燃える者、途上国の現状を憂う者、人間が違えども、同じような問題意識を抱えて生きている。

 

毎回人は違っても、参加する人の質は同じであることから、友人はその場所での景色は常に同じであるから、観測する自分がどう変わったのか、と考えていたのだろう。

 

急にそんなことをなぜ話しはじめたかというと、なかなか定点観測というのは、歳を取ると難しい。

 

自分の変化はもちろんあるだろうけど、一方で周りにいる人間も変わっていくから、どこに観測点を持ってくるかいうのは、よくわからなくなる。不安定だ。

 

ということで、僕は地元の景色に定点を置いていた。数年くらい前まで。しかし、土地の景色というのも、どうやらこれも不変ではないようだと気づいた。

 

田んぼが埋められてパチンコ屋ができてたり、家が取り壊されて駐車場になっていたり、景色が変わってしまうのだ。

 

なので、思った以上にそれぞれの物事というのは流転しているんだなと。諸行無常ってやつだと。

 

そんなことに別にこだわらなくてもいいんだろうけど、僕はどうも、そういうことにこだわってしまうタイプの人間なのだ。自分がどういう風に変化しているのか。

 

 

 

そこでけっこう重要になってくるものがある。

本。

 

僕は「ノルウェイの森」を3ヶ月〜半年に一回くらい読む。それでいつも面白いところ感じるところもあるのだけど、毎回微妙に刺さる箇所が違ったりする。

 

だから何ということもないのだけど、そういう同じものを読んだとしても、自分の感じ方が変わっていることに気づくのだ。

 

定点観測というと、ちょっとわかりにくいのだけど、そういう自分の心理や思考を映す鏡って貴重なものなんだなと、なんとなく思った話でした。

 

ちょっと自分が観測するのか、観測されるのかということがうまく整理されてなくて、ややこしい文章になってしまったが、言いたいことはなんとなくわかってくれるでしょう。(読者に丸投げ)

 

ではでは