年齢的に人生が半分終わったかもしれぬ

年齢的に、人生が半分終わったかもしれない、と思うことがある。
今年で35歳。
職業とか、社会的な活動とか、そういうものを自分で選んで、自己決定して、好きなように動ける時間って、せいぜい70歳くらいまでなんじゃないか、という感覚がある。
もちろん、80歳くらいまで自民党の麻生さんみたいにシャキシャキしてる可能性もある。
でも、どうなるかなんて分からない。
それに、そんな先の話をする前に、いつ何があって死ぬかも分からない、というのもある。それを言い出すと全部終わってしまうんだけど。
ヒトという生命体として考えると、次に出てくるのは時間の制約の話。
今の自分は、人の親であり、夫であり、労働者でもある。
そういう役割としての時間だけで、ほぼ一日が終わる。
単純に時間だけ見れば、2時間くらいは自分のために使える余地はある。でも、役割を全うするだけで、もう結構いっぱいいっぱい。
それはそれで、人生がちゃんと回っている感じもあって、きわめて幸福な状態なんだとも思う。
少なくとも今は、その積み重ねで日々ができていて、「恵まれてるんだな」という実感が、あとから静かに追いついてくるような感覚がある。
ただ、その「自分のための時間」というのも、何かを回復するための時間だったり、やらないといけないこと、やっておいた方がいいことに自然と埋まっていく。
そうなると、ふと、
「あれ、人生って何だっけ?」
みたいな気分になる。
まあ、単に疲れてるだけなんだけど。
20代の頃は、あれもこれもできそうな気がしていた。
シベリア鉄道に乗ってみたいとか、
南米に一度は行ってみたいとか、
イタリアでワインを飲んでみたいとか、
妄想はいくらでもできた。
でも、今のライフスタイルを前提に現実的に考えると、
「あと10回も海外旅行できるんだろうか?」
みたいな気持ちになる。
想像以上に制約が多くて、できることの可能性を一つひとつ計算していくと、「ああ、そんなに時間は残ってないんだな」と。
だからといって不自由かというと、そうでもない。
ここまでの人生は、自分で選んできた結果でもあるから、納得できる部分も多い。
それに、何度も海外に行くこと自体が、必ずしも幸せかと言われると、そう単純でもない。
まあ、こういう思考を、行ったり来たりしている。
役割とか、義務とか、やらないといけないことの中にも、確かに良い瞬間はたくさんある。
そういう時間を過ごしながら、今はこういうフェーズなんだな、と自分なりに理解できていること自体が、一つの安定なのかもしれない。
70歳くらいまでが自由度の高いフェーズだ、という話をしたけど、
70歳を超えたら超えたで、こうして自分の人生を振り返って、
「ああ、ああいう時間もあったな」
と語っているだけで、十分楽しい気もする。
もう、個人とか可能性とか、自己決定みたいな文脈で、あれこれ考えるフェーズは終わったんだろうな、という感覚がある。
子どものことをどうするか、というフェーズにも入っているし、そういう意味でも「人生半分終わった感」は、割としっくりくる。
もう「自分が自分が」という時期ではない、というか。
これからは、自分が置かれている条件や制約、生活のリズム、人間関係や社会の流れの中で、
自分にできることと、できないことを見比べながら、
やれることをやっていく、という感じなんだと思う。
必ずしも、すべてがオプションとして開かれているわけじゃないけど、
それでも、まあ悪くない人生にはなるんじゃないか、と思っている。
半分終わった感覚はある一方で、
新しい刺激に触れたり、何かに興味を持ったり、
心を燃やし続けないといけないな、という気持ちもある。
何も考えずにいると、難癖をつけるようになったり、
何かを置いていく感覚が強くなったり、
気づけば人の批判ばかりになってしまいそうで。
だから、立ち止まって考えたり、書いたりしながら、自分の向いている方向だけは、たまに確認しておきたい。
そんなことを、音声入力と、
なんとなく感じていたことを頼りに、
とりあえず書き留めてみた、という感じです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
2025年の振り返りと2026年の抱負をダラダラと

明けましておめでとうございます。
もうなんか、いちいち振り返るのもあれなんですけど、やらないと気が済まないので、今年もやらせてもらいます。
気持ちを新たに同じ目標を立ててしまう
その、去年のブログ見て、気づいてしまったんですが、この一年の思考が何も変わってない。
自分の整理整頓しなきゃとか、頑張りすぎないようにしなきゃとか、今年も思っている笑
というか、結局、いろいろ頑張ってしまって、年末年始になるとちょっと余白作らなきゃって思って、しばらくはそれでいけるけど、気づいたらいつの間にか頑張りすぎてしまう。その繰り返しになってるんだなって。
整理整頓
日々気がついたら目の前のやらないといけないことで時間が過ぎてしまう。そうなんですけど、自分の頭の中も環境も意識的に整えることで、生活の実感ってわくとおもうんですよ。
それの方が楽しいというか。わかっちゃいるんだけど、まあまあなかなか難しい。アルバム作るとか重複するんやけどざっとまとめておきます。
- 住民票、銀行口座、契約書関係の整理
- 服を整理して、ちょっと良い服を買う
- 2023と2024のアルバムをつくる
- 職務経歴書更新する(転職するつもりはない)
新しいことに興味を持つ
仕事関連からの関心ばかりで広がりがないなって。年末が暇だったけどこれを深めよう、知ろうとする気持ちがわかなかった。このままだと枯れそうだなと。
- 特産品やブランド食材などを試したり、食の流通網について知る(ちょい仕事絡み)
- 興味なかったジャンルの音楽を聴く。例えばヒップホップとか。
- 知らない人と会う
- よくわからないイベントに出かける
やりたいこと
やりたいことを機会が見つけてやらないと、やらないといけないことで
箇条書きで出した、やりたいことはできたかな。
でも、「新しいことに興味を持つ」は全然ですね。新しいものに触れる余裕がないというか。まったく、何も新しいことをしなかった1年でした。
自分が主人公なのは、もうおしまい
まあ、子育てだけで刺激としてはもうお腹いっぱいだから、新しいことを始める余裕がない。というかもう、自己実現とか、自分が主人公みたいな時代がとっくに、終わってしまったんだなって感じ。いい意味でもわるい意味でも。
感覚的には分かってはいたのだけど、子どもが生まれてから時間が経ってきて、どんどんと、いよいよと、自覚が芽生えてくるんですわ。
だから、ああもう自分のことはもういいなって思えるし。逆に、自分のために、消費できる時間がなくて、ときどきしんどくなることもある。
今回、正月過ごしていて、もう完全に世代交代したんですよ。
子どもの頃は僕の祖父母の家に親戚が集まっていたんです。が、今年は僕の両親の家に僕たち夫婦と、兄弟の夫婦が集まるという形で。
こうやって、時は流れていくんだな。習慣や風習は変遷していくんだなと。家族が集まるというのは30年前と変わらない。でも、メンバーは入れ替わり、生活様式も変化。あくまで自分も繋いできた世代の一つに過ぎない。という感慨になりました。
仕事に関していえば
2025年は「己の才覚を試す」1年だったと思います。
ちょっと別のブログで、一昨年の記事だったかな、いい意味で仕事とプライベートを境界をなくしたいって書いたことがあって。
2025年は限りなくそれでした。全力投球でした。マーケティングや経営をプライベートの時間を使って学びながら、仕事の時間で実践してた典型例で、よく働きましたね。
そのおかげもあって、今のフェーズとしてはそれなりの成果を出して。自分の一つ目標としていた前職を超えられたのは大きかったですね。
ただまあ、プライベートと少し混ぜすぎた部分がありました。ちょっともう少し境界を分けた方が良いかもということで、2026年は違った形にします。
今年は文章をたくさん書く
2026年は自分の考えてきたことをたくさん書きます。
社会的遺書っていうかね、大したことのない思想、思考がどれくらい、他者様にとって意味があるものなのかを試してみたい。
どうしてもこう、こういう節目の振り返りとか意味や意義にあふれた文章ばかりで退屈なのね。
ぼんやりと思っている、関西の生活文化とか、消化する前に新しい刺激を与えられ続ける現代社会とか、平成生まれの自分にとっての戦争とか、素人の素朴な感覚を残したいんですよね。
はい、思いついた順番にとりとめのない内容になりましたが、こんな感じです。
意味のないことに時間をかけたり、あえてゆっくりと物事を進めるとか、無駄で非効率な時間を愛するとか、生産性がいきすぎた現代に流されすぎないように頑張ります
2026年もどうぞよろしくお願いします。
【近況】時の流れとかそういうの

だいたい周期的というか、仕事でいそがしかった後は、ブログが書きたくなる。
その、なにかしら自分の何かが抑圧されることが多くて、反動で表現したい欲が段々と蓄積されてくるんだろうなと。
労働から求められる役割に 「ずっとこれはしんどいですわ」と違和感、自己の限界みたいなのが来るんでしょうな。
日々の現実とはちがう自分になりたくなるとも言えるかな。
まあまあそういうことで、表現、考えを整理したいので、最近感じてること、考えてることを書きますね。
人生が360度変わる子育て
子どもができると人生変わりますわ。それまでの生活がガラガラポンですよ。
前提がいろいろ変わりすぎて、ああそれになんとか適応していかねばという感じ。
こどもができて、もう半年くらい経ってしまって、慣れてしまって、逆にそれまでどうやって生活してたんだっけ?と、記憶が遡れない。
でもまあ、人生の意味ってなんだっけ?みたいなかんじで思春期をさまよっていた人間だった頃を考えれば、この小さな生命様が大人になるまでちゃんと生きる責任ができて、なかなかしあわせなことだなあと。
180°じゃなくて360°なのは、こどものことを話すと、両親の昔話をするから。妻様の赤ちゃんの頃のエピソードも興味深いところだし、自分のことに話が及ぶとまったく記憶のない自分をことを知って、もう一度自分の人生を生きている感覚にもなる。
管理職のマネごとはじめました
やりがいはあるけど疲れる。疲れるけどやりがいはある。そんなかんじ。
管理職とかマネージャーとか聞こえはいいけど、あんまり会社の中でも役割とか業務範囲とか明確に決まってないのもあって「なんでも係」だなあと。
ルール化されていないことをルール化したりとか、規則にするとかえってややこくなることを特例とか今回限りにしたりとか、
誰かやった方がいいけど誰もやらないことをやったりとか、利害が対立している人同士を仲介したりとか。
人はこうやって責任やら役割やら背負わされていくんだなと実感してますわ。
たぶんやらなくてもいいんだけど、どこかでやっておかないと時限爆弾的というか、時間の経過とともにこじれてしまうことに手をつけていってる感覚。
そういうわけで、自分で言うのはあれやけど、けっこう向いてるとはおもう。
うーん、もう少しくどく、正確にいうなら、自分で「できている」と勘違いしてぜんぜん「できてない」人たちを観測してきたけど、そんな人たちよりはマシかなってかんじ。
「なんでそこまでわしがやらなあかんねん」って思いながら、「まあまあこれがお賃金の分の仕事かな」と自分を納得させてながらやってます。
この商売こうやったらええんやろなあって感覚
マネごとの続きにもなるんやけど、面倒くさいもろもろを引き受けてるのは商売がおもしろくなるからです。
業務の流れやら人間関係やらが、とりあえず回るようになると、イキイキとみなさんが仕事に取り組んでくれる。これはなかなかやりがいがあります。
今やっている仕事は、売る品物を考えたり、いくらで売るかを日々工夫してます。売れ行きや市場の雰囲気をみて値段を変えたりしてます。
インターネット上の商売ではあるだけど、感覚的には街道沿いにある雑貨店。商店を営んでいるかんじ。
この一年くらい、いろいろ試しながら、商売的な感覚を磨いてきたなあと。
一個一個の作業は、ぜんぜん大したことはない。地味。ごくごくふつうのこと。けど、絶妙にほかの会社だともう少し時間をかけて形式、手続き、見映えにこだわるポイントだったりする。
商品の仕入れは絶妙に早く安い。けれども、それなりに価格はして、それでもお客さんが求める質は提供できてる。そこには商売が盛り上がってきてる時代の流れを掴んでる感じはある。びっくりするぐらい作れば売れる。高度成長期的な。
別の言い方をすると、日本的だと妙に時間と金をかけてしまうところに、グローバルレベルのだいたいそんな感じを持ち込んでる。
台湾にいってきたよ
子連れ初海外旅行。とてもよかった。
お世話もあるから、多くの観光地は回れないけれど、これまでの海外旅行とはちがった生活感があった。
拠点となるホテルを行ったりきたりしながら、朝ごはんに出かけてたり、こどもを散歩に連れたり、同行いただいた義母も含めて観光市場で晩御飯を食べたり。
これはこれでまた、新しい章に人生を進めてしまって感があった。
旅中4時間くらい一人になる時間があって、街中を散策をして、特に使う目的もそんなにない写真をバシャバシャ撮って時間が「自分だけの時間を、自分のために消費している」と高揚感がありました

東ユーラシア的なものへの関心(中国的、満州的、中央アジア的、ロシア的あたり)
よい言語化がわからないのですが、大陸の国の、必ずしも大都会ど真ん中とは言えないエリアに対する関心があります。
再燃してきたというか、もともとあった関心をより深掘りしているというか。
村上春樹のエッセイでノモンハン事件を取り上げたものを再読したり、コテンラジオの日露戦争の回を聞き直したり。岩波新書の中国の歴史関連のものを読んだり、旧満州国あたりを旅するユーチューバーの動画見たり。
そんな関心の持ち方です。
大日本帝国、近代史関連の関心や中学の時に三國無双から始まった中華文化への妙な憧れとか、そういうのも混じってる。
なんだろうね、近代建築だけだったらたいていの場合は、建築そのものを見ていればいいのですが、そういう東ユーラシア的な地域に関心を持つ、もっと近代の残滓というか、歴史のダイナミズムや帝国の暴力性がもっと見え隠れするわけで。
そういうのはけっこうつらい。でもそんなこともありつつ今生きている人たちもいるわけで、なんだかよくわからんけど、そういうのを見聞しておきたいという気持ちに駆られるんですよね。
はい。今、できる表現はここまでだな。
というのことで近況というか、最近考えていることは以上となります。
こういうナマモノな文章はこちらで書いて、もうちょっと整理して、公式な声明をnoteで書きたいなと。しばらくはそれが趣味になりそうだな。
2024年の振り返りと2025年の抱負

まいどです。たにぐちです。
年末年始はのんびりと。去年から落ち着いた正月が過ごせているわけですけど、それまで4〜5年は毎年何かしら仕事をさせてられていたので、仕事を何かしなきゃと、どこか焦ってしまうんですよね。
今年も12/30くらいまで頭の片隅にあれとこれとって脳内で年始からの業務のシュミレーションをしたり。
仕事好きなのか、ワーカホリック気味というか、ある種病気なんですよね、もはや。うまく切り替えられんというか。
はい。
表紙の写真は、親戚の飲み会であけた酒たちです。アルコール摂取しがち。摂取してなんぼ。ちょっと二日酔いとか記憶が飛ぶことを恐れてしまうんやけど、美味い酒はうまいなあと。
さて、振り返りと展望的なあれを。
昨年はこんな感じでしたわ。
2023年の振り返りと2024年の抱負的な - 諸般の事情がありまして
「流されてやる」よりも「やらない決断」が2024年のテーマですね。
積極的に休憩する、間を作る、自分のペースを守る、そんなところですね。多少物足りなくなるかもだけど、
この4〜5年くらいはいろいろ無理をしていたから、ちょっと時間の流れ方を変えてみたいなと。
頑張りがち。はりきって疲れがち。それでちょっと気力がないがち。機嫌もわるくなったりも。結局それって全体的にいろいろよくないから辞めたいなってところから、考えて、「やらない決断」というテーマでした。
前よりもマシにはなったけど、仕事が面白くなると間がなくなって詰め込んでしまったのは反省点。力みがどうしても出てしまう。
今年は家庭の事情もあるから、もっと気をつけたい。
こっからは、昨年の個別のテーマに触れていきますわ。
不妊治療
去年のいまごろは先行きがみえないで不安だったな。自分が原因だったから手術もしたけど、なんやかんやうまくいって、一年後には子どもがいるとはなんとも不思議なもので。
システムと文化
これ全然目標じゃないですよね。人の振る舞いはシステムと文化がどれくらい作用してるかを知りたかったという意味かな。組織論的な話をしようとしてたのかなと。
人の振る舞いを環境によるところが大きいとか、その環境はどれくらい文化的な側面から来るか、それらを踏まえると、どういう手を打った方がいいのかって去年も考えたし、今も同じように思い巡らしながら仕事してます。
一つ違うのは自分の組織への影響力がつよくなったこと。振る舞いが回りまわって雰囲気をつくってるなって感じる。
日本の経済状況や労働基準法的なところで規定されてる所もあるし、性格やこれまでの積み上げなど個々の言動、どちらも要因。
個人の問題に矮小化しすぎず、感情的にならずに淡々とやるべきことをやっていきたいですね。
思い出をちゃんと振り返る
やれる事はやった。家族の思い出のアルバムを2022年分は作ったんですけど、23年と24年分は未だ着手できておりません。
その辺やろうと思ったあたりで、子供ができて生まれてバタバタしてたのがこの数ヶ月だった。
振り返りというのがやはり引き続きテーマというか、年が明けるたびに大事だと思い直して、気を引き締めるが正しいかもしれない。
ええと、今年の抱負は、
「整理整頓」と「 新しいことに興味を持つ」ことです。
整理整頓
日々気がついたら目の前のやらないといけないことで時間が過ぎてしまう。そうなんですけど、自分の頭の中も環境も意識的に整えることで、生活の実感ってわくとおもうんですよ。
それの方が楽しいというか。わかっちゃいるんだけど、まあまあなかなか難しい。アルバム作るとか重複するんやけどざっとまとめておきます。
- 住民票、銀行口座、契約書関係の整理
- 服を整理して、ちょっと良い服を買う
- 2023と2024のアルバムをつくる
- 職務経歴書更新する(転職するつもりはない)
新しいことに興味を持つ
仕事関連からの関心ばかりで広がりがないなって。年末が暇だったけどこれを深めよう、知ろうとする気持ちがわかなかった。このままだと枯れそうだなと。
- 特産品やブランド食材などを試したり、食の流通網について知る(ちょい仕事絡み)
- 興味なかったジャンルの音楽を聴く。例えばヒップホップとか。
- 知らない人と会う
- よくわからないイベントに出かける
やりたいこと
やりたいことを機会が見つけてやらないと、やらないといけないことで
たいしたことはしないのだけど、およそ起こりうること、体験できることは世の中に溢れていて、それを実際に試すかどうかじゃないかなと。
あるいは、日常生活のなかで新鮮味と発見がある仕組みをいかに作るか、いかに自分が感じるか。
その、30年以上生きてきたなかで知っているパターン、心地よい状態はわかってきているから、飽きと惰性をあえて壊しにいく必要があるんだなと。
感覚的だけれども、楽しく生きること、幸せを実感することが中心にあってそのためにどういう生活を送るか、計画を立てるかってかんじかな。
正月あたりにメインで書いて、1月下旬に加筆してざっとまとめました。
あと、自分の自己実現とかどっちでもよくなって、子どもが大人になるまでを見届ける方が圧倒的にモチベーションだなと。それまでしっかり生きなきゃって。
33歳になりました

ぬるっと迎えました、誕生日。「あー誕生日なんか、そうよな、誕生日なんよな」って
大学のゼミの同窓会があった事情で、東京のビジネスホテルで歳を重ねた。
今朝起きると、若干酒が残っていて、ぼんやりとした頭。帰るまでの時間をどう過ごそうかなと考える。
とくにやりたいことも思いつかず、割とホテルの近くにあった、赤坂離宮迎賓館へとなんとなく足を運んでいまに至る。
不思議なほど感慨が深まらない。でも、家族や友人などからメッセージをもらって、いくばくか実感らしさが出てくる。
33歳の展望
一ヶ月もすれば子どもが生まれます。そういうのもあって、自分のことの優先度が下がっています、この頃。
この数年で個人主義的な考え方がなくなりました。「一度きりの人生だからー」「死ぬまでに◯◯がやりたい」みたいな
いやその、何も制約がなければありますよ。
一ヶ月くらい旅行行きたいとか、海外に住んでみたいとか、旅系の動画コンテンツじっくり使ってみたいとか、市議会議員やってみたいとか、和歌山で観光の事業やってみたいとか、そういうの。
ただまあどうしてもやりたいわけでもなく、なんとなく機会や近しいイベントがあったらやれたらなって、それくらい。
勝算のない職業選択でリスクを抱えるよりも、家族と幸せな時間を過ごせる生活が圧倒的に大事。自分だけの想いとか大したことない。
というか、家族との暮らしが前提にあって、今いる関西圏で、収入を得る手段を探して、できる限り自己実現の要素が入ってくるといいなという順番かな。
自由意志でやりたい職業選択なんてなくて。
仕事なんて、よくよく考えてみると相対的。自分の内発性と、社会情勢、時代背景、職業適正、労働条件の妥当性などの要素が絡み合って、選択してる。
なんらかの制約の中で、意志決定をしてる。ぜんぜん自由ではない。クリエイティブな仕事をしたい、エンターテイメント性のある仕事をしたい、けど給料や労働条件が割に合わない。
職業選択と内発性(自己表現、やりたいこと)のバランスがうまくいかなくて、自己矛盾が起きる。
言いたいのは、制約を制約であると認識すること、制約に納得して意思決定すること。
自分に関していえば、子育て関連は職業選択上は制約であるけれど、それを前提としてこれからの仕事やプライベートの時間を使い方を決めていく。それを自覚して、納得して、生きていくんだなというかんじ。
家庭、子育てというプロジェクトがあって、自分のリソースをどう使うかという視点で生きていく。その中で自分のやりたい職業選択なんてかなり優先度が下がるなって話ですね。
なんか、同じことをいろんな言い方で言い換えただけな気がするけど、自分の子どもが生まれてきそうな33歳が考えていることでした。
歴代の人類が感じてきた、ごくごく平凡な感想ではあるけれど、言語化させてもらいました。
ではでは
最近、実行力がすべてやなっておもうんです
最近、会社の方針が変わって、けっこう無茶な数字を追うことになりました。
別にいいんですけど、「またか」って気持ちに。誰が、その目標に対して、責任をもって、実行するんですか?という疑問。
まあ、僕なんですけど。頼まれたんですけどね。
数字だけが先行する計画ってのを、いろんな組織で、何回も見てきた。
高い目標を掲げて、よし!頑張ろう!って最初は意気込む。だけど、結局、時間が経つにつれ、達成からは遠ざかり……そしてまた新しい目標を立てる。
というのをけっこう繰り返してきた。
数字が先にきて、戦略と実行は後付けだったり、とくに考えてなかったり。その数字を追いかけることにどんな意味があるんだろうなと。
まあ、数字そのものに意味はないんでしょう。
というか、無いのはわかっているんだが、その達成に向けて、自分たちはどうなっていくのか、こんなことが起こるんだ、みたいなゲーム、ストーリーみたいなのが欲しいわね。意味付けというか。
ただ、壮大な夢だとポカンとしてしまうからさ、パターンとしてこういうのがほしいよね。
①今の自分たちのあるところから手応えを感じた近々の未来
②いいかんじに仕組みが出来上がったのちょっとあと未来
とかがあればいいかな。
そういうイメージがあればさ、そこに向けてさ、こういうことをしないとな、っていうタスクのリストとか、スケジュール感とかが生まれてくるわけですけどね。
そういうのって、上の人の頭にあるでしょうけど、下々はぜんぜん追いついていけないんですよね。
そういう、まだ言語化されてないものを引き出して、文章化あるいは計画に組み込んで、組織に定着させる仕事を、僕がしないといけないんだろうな。
「なければ自分で作ればいいのよ!」のよね、ええ、まあ。
「定型化されてない業務を、仕組み化して、反対する人をなだめながら、実行のサイクルをつくる」っていうのをこの2年くらいしてる。
感覚として、実行の淀み、停滞させてる原因をなくして、仕事の流れをつくるってかんじ。
だいたいそういうのって、だれの仕事でもなくて、でも誰かがしないといけなくて、ってやつ。
けっこうめんどくさいけど、割りかし、僕はやり甲斐を感じてしまっていて、たぶん他の人よりも実行の流れをつくるのがうまい気がする。
もしかしたら、ある種の能力の一つかもしれなくて、これから数ヶ月、そこに挑戦するので、ちょっと今の段階の考えを残したくて書きました。
自分の能力かもしれないと出るのは、やや傲慢さはあるんですが、「仮説」として、後から振り返られるように書かせてもらいました。
結果はお楽しみに
ではまた
北海道旅行で考えたこと

創造的破壊としての旅
旅をすると、相対的に自分の人生を見つめなおしてしまいます。今回もそれです。北海道へ行ってきていろいろ考えました。
その、例えばですね、時間の流れ方。気をつけているつもりだけど、ついつい、なんか時間ができると、いつの間にか、スマホを触ってしまう。
自分が想像する時間のペースで物事が進まないとイライラしてしまう。Googleマップ上に表示される移動時間より遅れてしまうと、損した気分になる。
旅をすると、なんでいつもこんなに縛られていたのだろうかと、思う。同じところでずっと暮らしていると、同じルーティンを繰り返していると時間の流れ方が固定しまう。その流れが当たり前になってしまう。
大阪と北海道では時間の流れ方が違う。自然、人口、地理など環境が違うから。結局、その土地の環境に、思考、価値観、意思決定は影響されるんだろうなと。
都市にいると、どうしてもタイパ、コスパを中心とした、資本主義的なものにいつの間にか縛られている。
「あの動画みなきゃ。頑張って投稿してインスタのフォロワー増やそ。ちょっとお金入りそうだからこの副業しよ」と何かと詰め込んでしまう。
そういうのを破壊しに、旅をしているとも言える。
終の住処(すみか)はどこですか?

旅で出会った人は、思わぬ言葉を投げかける。以前に京丹後に行ったときには、自分の親よりも歳上の人から「夢は何なの?」と聞かれた。
長いこと夢なんて考えていない。社会人になる前にはなくもなかったが、20代中盤くらいになると、夢を語っている人を、現実が見えてないだの、大人にならない奴だのと、どこかバカにするになった。
30代になった今、周りもほとんどの人が現実の側に立って、日々を暮らす。
夢というと大げさだけど、強い希望や実現したいことへの想像力って大事だなと思う。純粋な想いの強さみたいな。
北海道の旅行では「 終の住処(すみか)はどこですか?」と聞かれた時にハッとした。希望をもって、どこかに暮らしたいという考えがなかったから。
おそらくこのまま、関西圏で暮らすだろうと、勝手に思い込んでいた。夫婦二人の仕事の、その時の状況に応じて、京阪神のどこかだろうと。
"終の住処"はおおげさだけど、妻氏がボソッと「海外はいつかどこかのタイミングで住んでみたいね、マレーシアとか」と漏らした。
これはあくまで一例だけど、食を極めてみたいとか、酒屋とか本屋をしてみたいとか、こういうふうに生きてみたいことを、夫婦、お互い、口に出すようになりました。
実現するかは置いといて、もしかしたら小さく別の形で成立するかもしれないし。
前向きに心を燃やすことを大切さに気づかされた、北海道旅行でした。
今日はこんなところで。ではまた