兵庫県について書きはじめたはずなんだけど、深夜のテンションでエモみがあふれてしまうのであった

 

f:id:tannyday:20190104232453j:plain

 


毎日、まーいにち、僕らはテッパンの!
こんばんは、深夜のテンションです。

ことのほか、更新は毎日していないのにも関わらず、私のブログを毎日のように楽しみしてくださる方々がいるようで、期待に応えないわけにはいかないわけです。

最近、ちょっと毎日のように、何千字も字を書いているので、文章を書くこともさほど苦労もしないので、書くことができています。南禅寺は京都のお寺。

はい。しょうもないダジャレでした。
おじさんになったからではありません。

僕は小三くらいから、ずっとこんなことを言っていたので、そこはお間違いなく。
というか、おじさんになることは、ある意味児童化、幼児化することでもあるような、ないような。

さて、すこしおじさんについて話題が出たので、それについて書いてみようと思います。

 


正月に実家に帰って、すこし思うところがあったわけです。

20代の後半にさしかかると感じることは、自分の年齢がちょうど親が自分をこの世に引きずり出した時期と同じ年代に入るわけです。

もっとわかりやすく言えば、母ちゃんが僕を産んだ年と同い年。あるいは、母ちゃんが僕を産んだ年を追い越してしまった。そういうもの。


そして同時に、父と母が、ちょうど自分が生まれたときのじいさんやばあさんと同じ年齢になるということ。ザ・ジェネレーションズ。

人が老いていくプロセスをじっくりと観察してきたわけです。この点に関しては日々の生活では忘れがちではあるし、別に友達ともそんなに話題にのぼることもないですが、(そんなことよりも誰かれの結婚や出産の話題に忙しいですから)

まあ、こういう話は、長くなるのであれですし、僕はいささか、眠たくなってきたので、さっくりと話を済ましますと、50代になるのがこわいなということ。

うちの父さんと母さんをみていると、息子というはた目ではあるのですが、なんとまあ、幸福そうなこと。

子どもはほとんど独立したし、じいさんもばあさんも衰えてはきているのですが、なんとかまあ、比較的、手をかけることなく自分たちで生きてくれている。

毎月のように旅行に出かけ、毎日のように酒を飲んでいる。
そんな、50代に自分はなれるような気がしないのである。

でも、まあその幸福のバランスも危ういところで成り立っているのだけど、だから余計にありがたみを感じて幸せそうなのかもしれない。

50代をみていると、なんともまあ、人生の積み重ねと、運命のバランスと、あとはいくらかな幸運と、そういうもので、人柄がどうしようもなく現れてくるんだなと感じます。


そう、なんというか、この正月で感じたのは、いくらかの逆転なり、荒波なり、そういう確変要素はあるのだけれど、長い目でみると、人生はどうしようもなく積み重ねなんだなあ、ということ。

それに気づいて、わしはもう、わしはもう、、、
すまない、精神が急に70代になったようだ、すまない。


なんというか、がんばっていきていくしかなんだな、ということです。
ではでは。
おやすみなさい。

京都に住んで1ヶ月、感じたこと

f:id:tannyday:20190103211027j:image

 

 

文化的な都市だなということ。

 

えっ?改めて言うまでもないことを、ってやつですかね。

 

お寺、神社的な、デントー的な、ザ・日本的な施設については言うまでもないことです。

 

僕が気になったのは、河原町を出たあたりにいる、路上ライブをしているシンガーソングライターとか。

 

「あなたのインスピレーションで絵を描きます」とか。

 

なんだかよくわからないデザインアクセサリーを売っているアーティストとか。

 

己の才能一つで、人生を生きているのが、なんともリスペクトすべきだなと思うわけですが、そういう人たちを文化として受け入れる雰囲気が京都にはあるなぁと感じました。

 

デントーもあるけれど、意外とそういう新しい試みをしている人が京都にはたくさんいるな、と思うんです。とりあえず面白いことやってみなさいな、とような懐の広さを感じます。

 

そして、そういうアーティストが、成功すればそれは京都らしさに加えられるような気がします。「生き残ったら京都として認めてやる」みたいな。

 

京都へようこそ、京都を舞台に頑張りたまえ。もしうまくいったら、京都発として認めてやる。それまで外様だからな。みたいな。

 

ああ、何も根拠はないです。完全に主観です。

本当になんとなく河原町やら、烏丸やら、祇園やら、を毎日歩いていて、ふと思ったことなのです。

 

京都には、なんとなくアート的なものを持ち込んで一旗あげてやろうとしているショップやらブランドやらがそこはかとなく存在しています。

 

デントー文化を借りたりしながら、自分たちのテイストを出そうとしています。

 

そういう感じけっこう好きです。このなんとなくの主観が正しいかどうかとか、具体的な例を今後探してみたいと思います。

 

なんともざっくりとした京都について所感でした。

 

それでは

2019年が来てしまいました

ようこそ2019年。

 

2018年の年末は、仕事をしていました。

2019年の年始も、仕事をしています。

 

どうしてこうなってしまったのか。

 

2018年のあれやこれやを特段ふりかえることもないまま、2019年に押し出されてしまった、そんな感覚があります。

 

12月に引越しをして、人生が加速度的に動きはじめてしまいました。

 

なんというか、落ち着かないというか、そういう人生になってしまったんでしょう。

 

なにはともあれ、とりあえず、みなさま、あけましておめでとうございました。

いざ天竺へ

インドへ行ってくるであります。

さて、その、古きは天竺と呼ばれたインド。
東インド会社とか、セポイの蜂起とか、世界史ベースの知識しかないです。

その、大学生のころ、インドといえば、一種の登竜門的存在だったような気がします。海外に一定の興味があって、旅にもすこし慣れてきた。そんなころ「そうだインドに行こう」と多くの同輩生が、西アジアのあたりに消えていきました。

なにか一種のステータスのようなものがありました。「君たち、ぜひ、インドへ行きたまえ!かの国に行けば世界が変わるぞ!」そういうふうに、あちらこちらに吹聴する人々が現れるくらいには、何か人を中毒にさせるものがインドにはあるのでしょう。

僕も海外に一定の興味があって、旅というものに、なにかを見出そうとしていた輩ではあったので、気にならないと言えばウソになるくらいにはインドに関心がありました。

ただ、一つ、気になる点があってどうしてもインドに行こうという意志を固めることができませんでした。それは、お腹をこわすということ。

僕のお腹の戦闘力について述べますと、僕の見た目からも伺えると思いますが、線の細いといいますか、はっきり言ってしまえば、軟弱ということです。

夏場にアイスコーヒーを飲めば一発KO。スパイシーなカレーを食べてもKO。見方をかえれば、オフィスがきれいで福利厚生が整っている優良企業のような風通しのよいお腹なのです。

くどい例えでした。お通じがよいのです。

というわけで、行ってまいります。
まずはバターチキンカレーだな。

来年の、2019年の、目標的なやつ

ハイサーイ。
どうも、京都人どす。(どすえ、みたいな現代人はたぶんいないのだろう)


12月なので、来年の目標、テーマ的なものを書いておきます。
2300字くらいあるので長いです笑


2019年のテーマとしては、

 

 

「自分にとっての価値のあることと社会にとって価値のあることを擦り合わせる」

 
です。
イマイチなんだな。

なんというか、この数年だんだんと、いい感じなんですね。自分が何が楽しくて、その楽しいことを一緒に楽しむ同志も増えてきて。

自分のやりたい方向性や、世界観的なものが、定まってくるし、それを実現していく手段もわかってきたというか。

自分たちだけで楽しんでいるのは、それはそれでいいし、閉じた中で完結するのも別にいいのだけど。いくらか世間、一般的に他者に理解してもらうこともしていきたいなと考え出したのです。間口を広げるというか。

よくわからんけど、それを言語化すると、

 

「自分にとっての価値のあることと社会にとって価値のあることを擦り合わせる」

 

というぼんやりとした目標になりました。もうちょっとイケてる何かに変わるかもしれません。




各論としてはこちらになるでございます。

・お金についてお勉強
・中国語を勉強する
現代アート集団TEAM NIKOGORI
・絵やりたいな
・旅行と郷土史
・技術的にSNSを運用すること

順番にいきますと、

 


・お金についてお勉強
金融、株、仮想通貨、とかそういうの。あと税金とか。

 

何がなんだかわからないです。何がどういう関係性で、だいたいどんなメリットがあって、どんなリスクがあるかとか理解したいです。

実は、今年の目標だったのですができませんでした。再履です。再履っていやな言葉だな。


なりたい像としてはですね、ニュースで為替レートと日経平均株価とかが読み上げられた時に、「うほっ、あの株、上がるでやんすね」みたいなコメントが述べられるようになりたいです。



・中国語を勉強する
そろそろやろうかなと。

わしは労働者として英語が話せるのは強みでござる。しかしながら、グローバル時代の昨今、ちょっと英語できる人ならいるわけで。コモディティーでござる。

みたいなビジネス的な文脈というよりは、そこらかしこにいらっしゃるので、彼・彼女たちと話したいな、もどかしいな、思うことが増えたんですね。

大学でもいちおう勉強したし、今年の2月に大連に行ったときに、意外にわしの中国語が伝わったのがたのしくて。(まあ、何言っている全然わからんかったけど)

なりたい像としては、駅とか観光地で、なんとなく道に迷ってらっしゃる中華系の人に、「你有麻烦吗? 你想去哪里?」みたいな感じで話しかけて、受け答えしたいなと。


現代アート集団TEAM NIKOGORI
もちろんお分かりかと思いますが、現代アート集団ではありません。集団ではあります。ウゾームゾーの集団です。

某友人と某友人となんらかのイベント企画して遊んでるだけです。

某友人とたくらみに巻き込まれて、なんだかちょっと変わった旅行や遊びをしてます。一般的にはあまり理解されにくいのは、重々承知ですが、これがけっこうたのしいです。

今年も、大連にいったり、紀伊半島を一周したり、ロシア映画をみたり。
札束が飛ぶのが、残念なところ。


そして、2019年には、ロシアのウラジオストクに行きます。シベリア鉄道に乗ります。

あとは、
明治時代のコスプレをして明治村にいきます。
あとは紀伊半島を一周したときの動画を作ったりします。
大人のプレゼン大会をするらしいです。

 


・絵やりたいな
なんとなくやりたいです。必要が写真をやり始めたときも思ったのですが、なんらかのアート性のあるものをやってみると、新しい視点や気づきがあって楽しいです。そういうのが好きなんだろうな。

絵は、中高生のときは、成績はわるくて、苦手でした。

 
でも、富嶽三十六景とか東海道五十三次とか、ああうい系の浮世絵や錦絵テイストな絵は好きで、せっかく京都に住んでるし、そういう絵師さんとかいるだろうから(勝手な推定)やってみたいなと思っています。

・旅行と郷土史
無職の期間、旅行のベンチャーの仕事をしていたのですが、兵庫県奈良県の旅行プランを作っていました。そこでその土地の歴史や文化について調べたのですが、これが楽しいんだな。

自分の知っている、日本全体的な歴史と、その土地だけの歴史がつながっていく感覚が。その土地だけの物語のようなものを、じぶんで掘り起こしていくのがなんとも楽しくて。

楽しいしか言ってないですね。語彙がないのです。心をくすぐられるのです。

そのベンチャーには奉公仕事(ボランティア?)ベースで関わるのですが、自分のなかで歴史熱が再燃しております。



・技術的にSNSを運用すること
あんまりSNS使ってないんすよね。ツイッターをぼちぼちつぶやいたり、インスタで最近、近代建築をのせたりはしてますけど。

もうちょっと、技術的に社交をした方がいいのかなあと感じます。

基本的に、一定時間、一人の時間を確保しないと気が狂いそうになるのですが。

自分からもうちょっと積極的になった方がいいなと思うんです。前に他者へ積極的だった時期は、他人との距離感がわからなくて、自動的に距離を取られていました。

なので、相手も自分と関わりたいという雰囲気があればアクションを起こす的な、対人関係のリスクは最小化していました笑

なんとなく、常識とか、社会人として、みたいな感覚はなんとなくつかめてきたので(遅い)、もうちょっと社交性を出していきたいです。

その、一環として、SNSをもうちょっと積極的に運用していきます。技術的にフォロワー増やしてみたいですね。ゲーム感覚で。

 

 

 


アホみたいに長くなりましたが、2019年もぐちをよろしくお願いします。 

繰り返される新しい生活

世間は、師走ということで、今年を振り返って、この一年を清算する態勢に入っております。

一方の僕は、と言いますと、ひっそりと新しい生活がはじまりました。

12月に新しい生活をはじめるということは、なんだか少し、アンバランスな感じがします。まわりは圧倒的に「よーし今年も終わるぜ」みたいな雰囲気。

なのに、僕だけ4月的な、桜が満開で、これからの生活が期待と不安を覚えているみたいな感じで、とても違和感があります。

新しい生活とはいえ、もうこれで何回目なのだろうか、と数えるのがめんどくさくなるくらいには、新しい生活をしているわけです。なんというか、新しい生活がルーティーン化しているわけです。

新鮮味という意味では、小学校に入ったときや、初めて海外に入ったときや、初めて就職したときの、感じではないですね。

あの、「何がこれから起こるのだろうか」という前がまったく見えないという感じ。そういう経験ができることは、ますます少なくなるでしょう。齢が、30歳をむかえようとしているのにも、納得がいきます。

まあ、どちらかというと、先が見えないことに、不安を覚えやすいタイプではありますので、歳を取ることはわるいことでもないなと思います。

だいたいそんな感じで、今日という日が過ぎていくわけであります。

ではまた





村上春樹、騎士団長殺しを読んで

読書感想文です。

 

ネタバレとか特に気にせずに書くので、そういうのを気にする人は、ご注意いただければ。

 

でも、たぶん、村上さんの小説ってネタがバレてもあんまり関係ないような気がします。

 

文章の節々からにじみ出る雰囲気とか、物語全体を通して読者の心に染み入る感じとか、そういうところがキモのような気がするので。

 

もちろん、個人の感想、偏見ではあるのですが。

 

といっても、今回書こうとしてるのは、内容について「あそこの表現がとても素晴らしい」とか「ここらへんくどくど書きすぎじゃないか」とか批評をするのではないです。

 

読んだ上で、感じたことについて書きます。内容から触発されたけど、内容そのものには関係ないです。

 

 

 

 

さて。

 

「宿痾」ってご存知ですか?

「しゅくあ」って読むらしいです。

 

意味としては、コトバンクによる(Wikipediaには載ってなかった)と以下のようなもの。

長い間治らない病気。持病。痼疾(こしつ)。宿疾。宿病。「宿痾に悩む」

 

要は持病のようなもの。そして、「騎士団殺し」の中では、その人持って生まれた病的な性質、あるいは、自分の意志ではどうしようもなくやってしまうこと。

 

そういった意味合いで本の中では使われていました。たぶん。

 

(ネタバレですよ)主人公の妻が、昔からどうしようもなくイケメンに惹かれてしまう病的な性質があるように描写されています。

 

 

 

まぁ、何が言いたいかというと、僕もとしては気づきがあったわけです。

 

「宿痾」というと漢語で大げさな感じはするけれど、論理的かどうかを超えて、ついついやってしまう行動やクセを持っている人っているな、と思ったわけです。

 

具体的な例をあげると、うーん、じゃあ、まずは僕の場合。

 

ストレスが溜まってくると、目の前にやるべきことがあってほとんど詰んでいたとしても、現実逃避がしたくて、どうしても、ゲーム🎮をやってしまうことですかねぇ。

 

ゲームをすると、常にストレスがある状態から一時的に解放されるからかなぁとは思ってます。

 

うーん、でもこれはあんまりいい例じゃないですね。

 

えっと、たぶん、僕の場合は、住む場所や仕事を転々してきたことが、これに当たるのかもしれないです。ついつい新しい刺激を求めてしまうところが。

 

さすがに、もう6回くらい引越ししてきたので、少しこの持病は落ち着いてきたような気がします笑

 

みなさんはどうでしょう?自分の胸を当てて思い当たることはありませんか?ついついやってしまう非合理的な習性が。

 

学校の先生みたいになってしまいました。

 

世の中みていて宿痾だと感じるのは、精神的追い込まれるとついつい風俗に走ってしまう人とか、ついついツイッターで人を罵倒してしまう人とか、そういうのです。

 

何ヶ月単位とか、何年単位でみていると、「ああ、この人はついついこうしてしまうのだな。こうせざるを得ないのだな」というところです。

 

あなたの宿痾はどこかな?

というところで今日はこれで失礼します。

 

ではでは