母の日なのでそれらしいことでも書こうか

 

 

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どうも、こんにちは。ぐちをです。


今日は母の日ということで、とてもベタなベタですが、カーネーションを母親にあげました。

 

だいたい、こういう世間が決めた行事ごとというのは、その昔は「消費活動を促されている」と反発していたので、「意地でもプレゼントなどするものか」と決意を固めていた時期もありました。

しかし、人間というものは変わるもので、歳をとるごとに人間としての柔軟性を獲得してきた僕は、きちんと世間様のしきたりに沿うようになり、母の日には何らかの形で謝意を伝えるようになりました。

というわけで、本日はですね、母に関連する物事について書こうと思います。

 

母そのものについて書こうとすると、どうしても個人情報保護の観点からよろしくないと思いますので、性格に主眼を置きながらお話を進めます。ご理解いただけますと幸いです。

 

僕は大学を出てから一人暮らしが長かったものですから、改めて家族と住むようになって感じたのは、DNAというものはどうしようもないものだなということ。

 

家族を見ていて、こういうところ嫌だな、と感じることはたいてい、僕自身もそういう側面があったりして、なんとも言えない気持ちになります。

例えば、母について言えば、整理整頓、部屋の秩序を保つ、ということが大の苦手でして、その性質を僕は大いに受け継いでおります。母ほどではないですが、基本的に僕も片付けというものが苦手です。

意識的に片付けをする時間を設けようとしないと、部屋は物であふれ、みるみるうちに汚くなり、その結果、何をどこに置いたのかを忘れ、あらゆる物を無くしてしまいます。

 

あるいは、自分の感情や気持ちを言葉にするのが得意ではなくて、そういうところも僕はしっかりと受け継いでいます。

 

うまく自分のことが表現できないので、自分の感情の理由もうまく伝えることができなくて、気が短いところが、僕にも母にもあります。

 

と、まあ、先ほどからあまり一般的によくないとされることを述べましたが、いいところももちろんあるわけです。

 

わざわざ褒めることはあれですが、母は大事にすると決めた人はとことん大事にします。自分を犠牲という大げさですが、自分のことを我慢してでも積極的に人の為に動く人です。愛が深い人だなと常々思います。

 

まだ他にも良いところはありますが、そういう趣旨ではないので、別に取り立ててここでは話さないでおきます。



なんでしょう、今回この記事を書いて気づいたのは、普段からあまり、家族について評価を特にしていないんでしょうね。こういうところが良いところ、悪いところ、なんてことは意識していない。

 

そういう人だからと、全面的に受け入れているんでしょうね。良く言えば。

というのは、家族が家にいる時の人間性というのは、本当にその人自身ですから、なかなか変えることは難しいでしょうし、変えようとも思ってないんでしょうね。

 

その人自身である状態と生活していくのだから、どう合わせていくかという前提が僕の中にあるんでしょうね。

だから、今日、母についていくらか語ろうとする機会はなかなか新鮮な感覚でした。

 

いつもお世話になり誠にありがとうございます。(ビジネス風)

 

ではではこのへんで

 

 

新しい時代の幕開け

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CMとかでよく使われる言い回し。ダイエット食品にしろ、銀行にしろ、だいたいいつも新しい時代に突入しがち。

 

いつも時代は新しくなっているとも言えるのかもしれないが、ありきたりだなと感じてしまう。

 

しかしながら、今回ばかりは、リアルガチ新しい時代の幕開け。ありきたりだと言った僕だけども、本当は自分は使いたいと思っている人。

 

それでは、使わせていただきます。

新しい時代の幕開けです。

はい、どうもありがとうございます。

 

令和に伴って開催された10連休。最終日の今日、僕はスーパー銭湯にいた。

 

ツイッターのどこかで誰かが言っていたけれど、この連休の過ごし方は老後の過ごし方を如実に反映しているらしい。

 

僕は前半は結婚式に出席し、旅行した。後半はずっと家にいた。

 

プロ野球のテレビ中継をみて、プロ野球のテレビゲームをしているうちに時が過ぎた。老後の過ごし方理論にもとづくと、早急にボケてしまわないか心配である。

 

知り合いの状況を見聞している限り、旅行をしている人が多かった。ウラジオストックに行ってシベリア鉄道に乗った彼は羨ましい。

 

あるいは、プログラミングに勤しんでいた彼もいた。老後の過ごし方理論に基づくと、彼は一生働くのかもしれない。生涯現役。

 

とにもかくにも、この連休で令和の夜明けが終わり、明日から令和の朝がやってくるのだろう。

 

平成生まれは一時代前の人間になる。時代の変化は激しい。この前インスタのストーリーを上げるのにとても苦労した。平成おじさんはつらい。

 

これからはそういう時代の変化に頑張ってついていかないと自動的に遅れた人間になるんだろうな。

 

でもまぁ、今のところ若者をやらせてもらっていて感じることは、みんなみんながSNSをやっているわけでもないし、ユーチューバーやTikTokをやってるいるわけでもない。

 

だから無理してSNSをいつものように更新している中年の方はちょっとあれだし、仮にユーチューバーをやっていたりすると、身構えてしまう。

 

一方で、中年でも、LINEをしてない方だと不便だし、スマホを持ってないからと言って何でも人に聞いている方には、いささか古めかしさを感じる。高齢者もちろん仕方がないが。

 

思うのは、時代の先端的なところに喰らえつかなくとも、若者の中間層的な時代感覚は理解できるような人間でありたいなと。

 

そんなわけでそろそろスーパー銭湯から自宅に帰る。

 

ではでは

 

 

 

 

 

文化的生活を取り戻す

 

久しぶりに文化的生活をしている気がする。

 

何もかも忘れて旅をした。本を読んだ。今は映画を見ようとしている。

 

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常になにか目標があって、それを消化する毎日をしていた。それはそれで活気があってよろしい。

 

でも、なんとなく生活に余白がない感じはさみしかった。

 

ダラダラお酒を飲んで肝臓を痛めつけるとか。天皇陛下と皇后さまのなれそめを繰り返し続けるワイドショーを見て、「もう飽きた」と嘆くこととか。

 

そういう生活を久しぶりにして、愛しかった。

 

お金を使いすぎたので、しばらく慎ましく目標を消化する生活に戻ろうと思う。

 

そしてまた、気が向いたらどうでもよい暇そうな文書を書くので、そのときはよろしく。

 

わしの平成の最後

 

平成最後の週末。友達の結婚式。そして、交際相手とちょっとした旅。

 

時代が終わっていくということで、平成とはなんだったのか、なんてことを自分なりに考えてみる。

 

別に特に結論は出ないのだけど、平成なようで昭和だったみたいな感覚が強い。

 

僕が生きたのは、90年代と2000年代と2010年代。10年ひと昔とよく言ったもので、それぞれに違いがある。平成と言えども。

 

平成とはなんだったのか、というのは、ほとんどそのまま、「僕の人生はなんだったのか」と同じ意味になる。

 

そんなことを考えていた時、こんな本を手に取った。

 

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東京の、表参道の、青山の、本屋さん。

いかにも都市的な、趣味性の高そうな場所で出会った。

 

この著者は、90年代に20代を過ごした。僕は2010年代に20代を過ごした。

 

テクノロジーやら、音楽や映画といった文化への触れ方やら、そういったものに対しての向き合い方が違う。ライフスタイルがまったく違う。

 

その点では共感できない本だった。それでも20代の人間というのは、自意識が過剰で、自分がいかに他の人と違うかアピールしたりだとか、自分という存在を特別なものに仕立てようとする。

 

そういう点ではまったく同じだった。

 

何が言いたいか。

 

時代が違っても、テクノロジーなどの手段が違っても、能力だとか、自意識だとか、人間の本質は同じだということ。

 

そういう時代の変化の中で、自分をどういうふうに位置付けて、どう生きていくのかを試されているのだなと、僕は平成の終わりに感じた。

 

自分が相対的にしたいことと、絶対的にしたいこと。それを少し考えてみてもよいのかなと。

 

こんなところ

ではでは

誤字脱字が多い、この頃

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最近なぜか誤字脱字が多い。

 

今まで特に意識しなくてもできていたことが、できなくなっている。

 

いわゆる、「てにをは」をよく間違えるようになった。あるいは、それらがよく抜けてしまうようになった。

 

もしくは、支離滅裂な文面になってしまっている時がある。大抵の場合は、そのままでも伝わる。LINEやらメッセージを送る場合は、まぁそれでいい。なんとかなる。

 

問題は、メールを打つ時。メールの誤字脱字は、特にビジネスにおいては、取り返しがつかないことになる。

 

もう、何度読み返しても、自分では気づかない。送ってしまった後に気づく。なんで、そんなことに気づかなかったのだろうかと、悔やまれることがたびたび。

 

理由はよくわからないけど、歳をとったからかもしれない。物事を認識する能力が落ちてしまったのかもしれない。

 

注意力というか、目の前にあるものをしっかりと認識できていない。文章を読んでも頭に入ってこない。何度も音読してはじめてやっと、脳みそに染み込む。理解ができるようになる。

 

ほかの人といると、こんなこともわからないのか、ということがよくある。

 

物事を理解するペースが遅いのだと思う。そういう人間だから仕方ないと言えばそれまでだけど、ときどき悲しくなる。

 

あと原因として考えられるのは、英語が前よりできるようになったから。前よりも、ネイティブの英語を、とてもよく聞き取れるなった。しかし、それと反比例するように、日本語の能力が落ちてきた。

 

気のせいかもしれない。それが理由ではないかもしれない。

 

この世には、日本語もできるし、英語もできる人もいるだろう。けれど、どうも、自分の脳みそのキャパシティを考えると、何かを得ると何かを失っているような気がする。

 

そんなかんじで、いろいろあるわけだが、今日は今日で、明日は明日で、やっていくしかないわけで。

 

自分の能力を、無理はない程度に、やれるところまでやる。

 

そんなかんじかなぁ。

 

それでは

 

 

街の見る目が変わった

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諸般の事情があって東京にきた。しばらく滞在するのだけど、自分の知っていたトーキョーと比べてどのように、街が変わったのだろうかと、気がかりである。

 

早朝の東京駅周辺を歩いて感じたのは、大規模な建設が多いこと。山手線が新しい車両になっていたこと。

 

東京ガスというローカル広告がやたらとあったこと。通りぬけ禁止みたいな何かと人の行動を制限する注意書きが多いこと。

 

歩くサラリーマンの血色がよくなさそうなこと。いやまぁ、戦闘力が高そうなエネルギーに満ち溢れたリーマンもいらっしゃったけども。

 

 

 

あとは、これは僕の変化だけど、やたらと近代建築や古い建物に目がいくようになった。それと、町名や橋の名前の由来も気になってしまう。

 

 

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パソコンで作業のひとつでもやりたいところだけども、入ったスタバ☕️ではWi-fiは飛んでおらず、スマホ📱は通信制限がかかっていて、思うようにインターネット界隈を歩き回ることができない。

 

というわけで、ブログを書いているわけである。

 

今日もざっくりとこのへんにしておきます。

 

ではでは

 

 

 

20代と30代のあいだ

はい、どうもどうも。ぐちをです。ご機嫌いかがでしょうか。

 

今日はですね、ちょっと変わった話をしようかなと思っています。

 

皆さん、未来の自分の姿を思い浮かべることできますか?どんな姿をしてるでしょうか?将来の夢はなんですかね?

 

じゃあまぁ、たとえば、30歳の自分ってのはどうでしょう?

 

というのはですね、僕がちょうど大学を卒業した頃 、30歳はどうなってる?みたいな話をよくしてたんですね。

 

その当時の僕は、30歳になったイメージがなくて、というより、そもそも生きているかどうかすらわからない、みたいなことを考えていました。

 

ぼんやりしてるというか、真っ暗というか、何も見えないというか。

 

どちらかと言うと、死んでいたとしても不思議ではない。むしろ、その可能性の方が高いんじゃないかとさえ思っていました。根拠もなく。

 

その当時は、刹那的というか、まぁどうせ死ぬかもしれへんし、みたいな感じで、結構自分を粗末にしながら生きていたような気がします。

 

食べたかったら食べ、飲みたかったら飲み、みたい。わかりやすく言えば。そのおかげで貯金もあっという間に消えていってしまいました。

 

今は、その当時の自分がなかなか恨めしい。 

 

その当時の持っていた感覚が不思議で不思議で仕方ありません。それでもまぁ思っていたものは仕方わからないわけです。

 

多分、3年くらい前に、日本に帰ってきたあたりから、僕はこれからも生きていくんだろうなぁということを少しずつ感覚的に理解していったと思います。今振り返れば。

 

今27歳になって、 30歳までは生きているんだろうなぁと言うイメージが固まってきたし、もっと言えば、50歳になるとこんな感じなんだろうなという感覚すらあります。

 

将来、どういう風になっているかなんてわからないけれど、このどちらかと言うと線の細い体を大事にしながら、ゆっくりと身体機能を衰えさせながら、生きていくんだろうなぁと。

 

後は、どうなってもまぁ、僕だし、まぁこうなるんじゃないかなぁっていう想像の範囲が定まってきたっていうのもあるんでしょうね。

 

なんで23、24、25歳くらいの時期の自分は、人生がぼんやりしていたのか。あるいは、どうしてこの数年が形ができてきたのか。ふとそんなことを今日、考えたのです。

 

ではでは