そうじゃない人たちとの戦い

 

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どうも。


話のつながりとしては、以前に書いた話のつづきなのですが、

 

gucci2017.hatenadiary.jp

 

コミュニケーションの作法が違う人たちと、
いかにうまく共存するか、
理解し合えるようにするか、

という話です。

 

 


そういうことを大事にしていたのですが、
どうも、うまくいかないし、
僕ばかり損をしている。

と感じることが多い。❇︎あくまで個人の感想です)



その、なんというか、気づいたことがありまして。

 

わかり合おうとしたり、相手の考えを理解したり、意見を交換したり、そういう双方向性のあるコミュニケーションを取ろうとするのは、あくまでコミュニケーションの作法の一つ。


そうじゃない人もいるんだなってこと。

 

そうじゃない人たちに理解を示そうとすると、
そういう善良さにつけ込まれて、

(こちらが善であるという前提なのは問題かもしれない。なぜなら、あちら側すればこちら側が偽善もしくは悪かもしれないからだ。)

黙って言うことを聞け。
お前の考えには価値がない。
私の考えが正しい。

そんな感じで、

あっという間に、


そうじゃない人たちに、使われたり、コントロールされたり、支配されたりします。

 

彼・彼女たちは、別にわかり合おうともしていない。自分の意見を通すことだけを考えている。

 

そういう人たちに僕がやろうとしていた、「一定の理解を示す」というコミュニケーションの作法は、どうも具合がわるい。

 

押し切られるし、

損はするし、

傷つく。

 

個人的に、ここ5年くらい、けっこう「そうじゃない人たち」に苦しめられてきた。


だから、残念なのだけど、

そういう人たちの言うことは聞く必要はないという結論に達しました。


僕がすべきことは、したたかに、狡猾に、彼・彼女たちの言うことを無視したり、無力化することで、「そうじゃない人たち」に支配されないように、戦うべきなんだなと思いました。


どこにでもそういう声の大きく、口が立つ(ように見える)人がいます。

彼・彼女たちは、僕のような声が小さく口が下手な人間には天敵なのです。

 

なんでしょう、理想的な共存とはほど遠いですが、僕が現実世界でうまく人とやっていくための共存とは、「そうじゃない人たち」と害がない程度に適度な距離を保つというところでしょうか。

 

もちろん、大切な人は大事にしながらという前提ですが。

 

今日はこのへんで

それでは