5/7

f:id:tannyday:20180507181832j:image

 

5/7

手書きの字ってのは、手書にしかない、いやし(漢字が書けない)のようなものがあって、「あって、」じゃなくて、「あるような気がします」ですね。うん。その、なんというか、パソコンで打った字は、パソコンに合わせたペースで事が起こってくるような感覚があるんですね。

いかがでしょう?スマホならスマホガラケーならガラケー、これからなら音声入力もあるんですかね。この文章は、スタバのレシートの裏に書いた字を、MacBookで打ち換えているわけですけども、ちょっと、普段のブログと違いますね。そういう文章、文体の違いが楽しいんですよね。

もうスペースがあと少しになってきたのですが、その、ほんと、僕はこんな感じで、自分の感じていることを文字を起こすのが楽しくて仕方ないんだなって思います。フツーの会社員をしながら、自分の文章、文体、考えを極めていきたいんだろうなって思います。

うん。それでは。

 

✳︎だいたい手書きの文字のまま書きましたが意味の通りやすいように多少修正しました。

疲れていると生きているのがしんどい

 

ええ、まぁ、タイトルの通りなのですが、特段述べることもないのですが、聞いてください。

 

その、遊びつくして疲れたんです。

疲労です。

 

そうなるともう、何もしたくないんです、わたくし。人と話そうが、テレビをみようが、本を読もうが、スマホでなんj(野球ゴシップサイト?)をみようが、ダメなんです。

 

何もしても、疲れていて、頭に入ってこない。

 

この、疲労した時の、己のポンコツっぷりったらどうしようもないんです。

 

しんどい。

 

なんなんでしょうね。早く寝ればそれでおしまいなのですが、食べたばっかりで寝ようにも寝れないわけでして。

 

そんなんあなたの知ったこっちゃないですよね。はい。よく分かります。だから私はこうして、なんとか寝るまでの時間を過ごそうして、このしょうもない文章を書いているわけであります。

 

ええ。

たまにはこういうくだらないのも許してくださいな。(いつもですかね?)

 

そんじゃあ、まぁ、今日はここいらで。

 

さようなら

ごきげんよう

 

下腹部を襲う、人としての尊厳の危機

 

f:id:tannyday:20180429173500j:image

 

大阪の街中を交際相手と歩いておりました。休日のなんともまぁ、至福のひと時であったのですが、人生は諸行無常、塞翁が馬ということで、非常事態が私に訪れました。

 

本町から中之島を抜けて、南森町にある大阪天満宮のすぐそばの繁昌亭という落語の寄席があるところに向かっていたところ、下腹部に激痛が襲いました。

 

教養と見識のある紳士・淑女のみなさまであれば、私の身に何が起きた容易に察せられることか思います。

 

おそらく昨夜の鳥の刺身か、昼食のカレーのスパイスが原因かと推察されますが、それはもう立ち所に不自然な姿勢を取りながら、歩を進めたわけでございます。

 

すぐ近くにコンビニもなく、さっと入れそうな駅や商業施設もなく、この世にはこんなにも便利な所は存在しないのだという事実に私は絶望しました。

 

ちなみに、フランスのパリを旅していた時も同様の事件が起こりました。パリの街中をもぞもぞしながら近くの洒落たカフェーに入りまして、便利な所を貸していただけませんか、とお願いしたことがありまして、それが走馬灯のように思い出されました。

 

ちなみにちなみに、その時は店員から拒否をされるというアジア人差別を受けたのですが(もちろん冗談ですよ)、

 

「いくらだったらいいんだい?」とアジア人らしく?お金を払ってなんとか貸してもらいました。

 

話は戻りまして、結局のところ、下腹部に激痛の走ってから1キロほどもぞもぞしながら(距離感は個人的な感想です)、ファミリーマート南森町南店に駆け込み、事なきを得ました。ありがとう、ファミリーマート南森町南店。

 

落語は結果としては、下腹部の激痛のおかけで半分ほどしか鑑賞できませんでした。交際相手はおそらく心底失望し、心の中で私のことを「◯んこマン」とでも呼んでいるでしょう。

 

みなさん、お腹の痛みには注意しましょう。下腹部のテロはいつ起きるかわからないので、常に便利な所の場所を把握しておきましょう。

 

それでは

 

本の読み方が変わってきました。

f:id:tannyday:20180430072500j:image

 

本の読み方が変わってきました。

 

すこし前までは、ビジネス書とか実用書というか、知識をつけたりですね、要は役に立つかどうかを重視して本を選んでましたね。

 

なので、小説をまったく読まなくなりました。

 

小説というのは、仕事に役に立たないし、新しい知識を学べるわけではないし、何の意味があるのだろうと思ってました。

 

2年くらい前から考えは変わりまして、文体とか文章に表れる息づかいみたいなものに魅力を感じるようになり、小説の方が読みたいと思うことが増えました。

 

 

ですがですが、とはいっても、刻々と変化していく時代に追いついて、追い抜かしていくためには、フィンテックやらイノベーションやらのビジネス界隈も理解する必要もあるなと思います。(何もわかってない)

 

要は、バランスか大事ですね。

いささか、ざっくりすぎるまとめですが。

 

 

さて、ちょいと文体についてお話しさせてもよろしいでしょうか?

 

まぁ、イヤという権利はみなさんにはありませんが笑、お付き合いください。

 

仕事で工場に行くことがありまして、工員の人たちが情報を共有するための連絡ノート(本当に手書きのノートです)が置いてあったんですね。

 

そこに工場のエライ人から若手の工員にへのお怒りのお言葉が書いてあったのですが、その中身をちょー簡単に要約すると、「失敗ばっかりしやがって、仕事なめてんのか、ボケが」という感じでした。

 

当事者としてはヘコむだろうなという内容でした。が、そこに漂っているエネルギーというか、罵詈雑言の生命力というか、感情をむき出しにしているところに何か惹かれるものがありました。

 

そこに人が生きていて、何かを想いを抱えながら、その一部を吐きだそうとしている。だけれども、文章を書くことに慣れていないのか、不器用さというか、怒りだけしか伝えることができない。

 

小説とかきれいにまとまった文章の良さもあるのですが、こういう現実世界の、リアリティのかたまりというか、人の存在が感じられる文章にも魅力を感じます。

 

なので、昨今のフェイスブックにあふれている思いの丈がつまった投稿を閲覧するのは、僕の趣味の一つでもあります。いささか性格はわるいのですが。

 

今日はそんなところです。

ご静読ありがとうございました。

通勤電車に乗っています

f:id:tannyday:20180427073612j:image

(画像はあくまでイメージです)

 

高校生の時に通学をしていた電車に乗っているわけなのですが、自分の通っていた高校の生徒が同乗しているわけです。

 

その高校の生徒は、なにかのテストがあるようで一心不乱になにかを書きとめていたと思えば、英語の単語帳を取り出して暗記にいそしんでいたりします。

 

あまり生命力のある目はしていないです。死んだ目というやつです。

テストテストテスト!

偏差値!偏差値!偏差値!

 

ああ、自分もこんな感じだったな、という思いがこみ上げてきます。

 

 

他にも、妙な匂いを放つ作業着土木関係のおじさんや、わずかな席のすき間にでも割り込んで座ろうとする図々しいおねえさん(見た目は控えめ)などのおなじみメンバーがそろっているわけです。そりゃみなさん歳をとられてますが。

 

僕が通っていた10年前と多少の人員も変わっているものの、満員電車とは言えないが、それなりの混み合いのある風景が広がっています。

 

その「相変わらず」ということに、すこし安心感を覚えましたね。物心というか、自分の周りを観察してきちんと認識するようになったこの10年ですら、いろんな物事が変化しています。

 

昔は、新しいものや変化に、目を向けることが多かったのですが、この頃は変わらず存在しているものに関心が行くようになりましたね。

 

それくらい多く物事が変わっていくし、失われていくわけです。

 

そんな感じで、ノスタルジック、感傷的な、気分にすこしなっております。

 

今日はこのへんで

ごきげんよう

 

 

またまた文体を見失っている

 

いつも大変お世話になっております。

 

先日から書いたブログ記事の件ですが、

 

何かに対して意見を申し上げようとしますと、どうしても小生の文章というのは、テンポというか勢いというか、いわゆる面白みがなくなるのだなと思った次第でございます。

 

文章というのは、ご覧いただく方にご理解いただけるように、ある程度ロジカルに説明差し上げる必要があるからでしょう。

 

それにつきまして、反省した次第でございまして、本日、小生、ビジネスメール風に書かせて頂いております。

 

小生って、「私」ということなのですが、初めてビジネスにおいて、この呼称を拝見した時は非常に戸惑った次第でございます。

 

ちなみに、偉い人になると、小職となります。何やねんコレとはじめて見たときは思いましたが、

 

大変恐縮でございますが、慣れてしまったのであります。

 

小職。

 

いずれにしても、この世のビジネスメールというものは、回りくどく読み難く、漢字ばかりが並ぶ物も御座いますし、ひらがなばかりがならんだすこし知的とはいいにくいメールもございます。

 

はい。

 

なんだかこの頃は、このブログおきまして、自分の文体を見失っておりまして、いっそのこと新しいものに挑戦してみるのもオプションではないかと考えております。

 

その一環としまして、ビジネスメール風にしたわけでございます。

 

以上ご査収の程よろしくお願いいたします。

今後お役所文学とかにも挑戦したいと存じます。

 

 

それでは

 

社会は分断されている

 

土曜日の朝はあまり好きじゃないです。だいたい前の日の晩にお酒を飲んでいるせいで、頭がぼーっとするからです。

 

要は、土曜日がわるいわけじゃなくて、酒を飲みすぎてしまう自分がわるいだけなんですが。

 

なんでもよい前置きでした。

 

さて。

 

この頃感じるのは、世界というのは分断されているということですね。世界、分断、というと、なかなか迫力がありますね。

 

世の中っていうのは、自分が思っていたよりもバラバラなんだなということですかね。

 

家庭やら学校やら会社やらでも、

 

あるいは、スポーツチームや前衛的アート集団でもあっても、

 

それぞれのルール、マナー、常識、世界観のようながありますよね。

 

 

そういうものの違いで、全然、ぜんっぜん、コミュニケーションの取り方や行動の仕方、着るもの食べるものから、何もかもが違うんだなと思いました。当たり前のことですけど。

僕はもう少し人と人は分かりあえるものだ、という信念に生きていたところがあったのですが、そういう姿勢をもっていることが大事だと思っていたのですが、

世の中を生きていくには、もうすこし別のやり方も選択肢として取っておく必要がある、と感じることが増えました。


こちらは相手を理解しようとしたり、リスペクトを持っていたとしても、相手がこちらにそういうのがないどころか、人して扱われなかったり暴力的な態度を見せつけられることがあります。


そういうときに、こちらが相手を理解しようとする姿勢は、自分にとって不利に働いたりします。

 

なんというか、それはコミュニケーションの取り方はの一つでしかないということに気づいたんですね。

相手も同じようにこちらを大事にしようとする姿勢があってはじめて、コミュケーションや活動が、合理的や効率的に成り立つ。

逆にいうと、相手からのリスペクトという条件がないと成り立たない。

そして、こちらが相手をリスペクトをしているということを利用されたり、つけ込まれたりするんだなということ。
 

リスペクトがある人にはリスペクトを持って接するべきであるのですが、リスペクトがない人にはどうやって接せるべきなのだろうか、という課題があるんですね。

そういうのを考えたときに、
なかなか抽象的ではあるのですが、

世界というのはたしかに一つではあります。ですが、その中にあるそれぞれの「社会」というのは、接していることもあれば、はっきりと分断されていることもあるんだなということですね。


具体的には、

東京とか大阪とか地理的なものもそうですし、

公務員とか広告マンとか職業的なものもそうですね。

 

 

まあ、そんなところです。

なんとなくキーワードとしては、
非暴力不服従、愛の反対は無関心、とかですね。


暴力的な人間の言うことは聞かない。


だけど、力があるとなかなかそうも言ってられない。


じゃあまあ、無関心になるか。


うーんでも、ちょこっとだけ愛は残した方がいいのかなぁ。

 

そんなかんじで、
考えを巡らせております。

それでは