博物館に行ってきました

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今日は金曜日の夜。特に何もすることもなくまったりと過ごしております。


今日のこの文章は、音声入力で書いているわけですけどもまぁ、話し方としては、そんなに文体と変わらないわけですね。でもなんというか、音声というのは、ある意味、一発勝負ではありますので、どこかぎこちなようなものが文章に現れてしまうわけです。


音声で書いてみようと言うことを決めたんですけども、特に何かテーマがあるわけではないので、ちょっと最近思ったことを1つだけ書いておこうと思います。

 


Twitterの140字に収まるような、そんなしょうもない気づきですけども、まぁそういうのもあっていいでしょう。お付き合いください。


この前博物館に行ったわけですけども、はい。なんとなく行きたくなったんですね。そのなんとなくは何なのかというのは、特に疑問を挟んでいただく余地はございません。自分でもよくわからないのです、こういう衝動は。


その、県立博物館というやつですね。そこで、地元の歴史のようなものを、一通り見たわけですけども、自分が高校生の時に習ったような日本史出てくる品物が、文物がたくさん並んでいたわけです。


その高校生の時にも一度来たことがあって、その時は「本当に本当につまらないなぁ」「こんなの見てになるのだ」っていう気持ちで見とったわけですけども、今回はすごく楽しかったですね。


何が楽しかったかというと、そこかしこに置かれてあるものの歴史と、自分が今生きている土地や人やらの、なんというか……自分の今の生活とのつながりを感じたりだとか、


全く別のところで知った物事がつながったりするということに単純に驚きがあったんですね。


そーゆー情報の情報とつながってしまう楽しさというのは、自分の中である意味、趣味のようなものなんだなぁと気づきました。


それはおそらく、旅行が好きなことだったりだとか、近代建築が好きだったりだとか、につながってくるんですが、なんですかね、歳を経るごとに人生というやつは意外と楽しいもんだなぁと気づかされるわけです。


今日の労働ではなかなか辛いことがあったのですが、こーゆー楽しさへの気づきようなものを書くと、日中のしんどさがあったとしても、今日という一日の中で何かを残せたという事実に、いくらか救われるような気持ちになりますね。

 


「〜ですが」「〜けれども」「〜なので」が多いですね。癖ですね。


今日はこのへんで
それでは

 


 

そうじゃない人たちとの戦い

 

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どうも。


話のつながりとしては、以前に書いた話のつづきなのですが、

 

gucci2017.hatenadiary.jp

 

コミュニケーションの作法が違う人たちと、
いかにうまく共存するか、
理解し合えるようにするか、

という話です。

 

 


そういうことを大事にしていたのですが、
どうも、うまくいかないし、
僕ばかり損をしている。

と感じることが多い。❇︎あくまで個人の感想です)



その、なんというか、気づいたことがありまして。

 

わかり合おうとしたり、相手の考えを理解したり、意見を交換したり、そういう双方向性のあるコミュニケーションを取ろうとするのは、あくまでコミュニケーションの作法の一つ。


そうじゃない人もいるんだなってこと。

 

そうじゃない人たちに理解を示そうとすると、
そういう善良さにつけ込まれて、

(こちらが善であるという前提なのは問題かもしれない。なぜなら、あちら側すればこちら側が偽善もしくは悪かもしれないからだ。)

黙って言うことを聞け。
お前の考えには価値がない。
私の考えが正しい。

そんな感じで、

あっという間に、


そうじゃない人たちに、使われたり、コントロールされたり、支配されたりします。

 

彼・彼女たちは、別にわかり合おうともしていない。自分の意見を通すことだけを考えている。

 

そういう人たちに僕がやろうとしていた、「一定の理解を示す」というコミュニケーションの作法は、どうも具合がわるい。

 

押し切られるし、

損はするし、

傷つく。

 

個人的に、ここ5年くらい、けっこう「そうじゃない人たち」に苦しめられてきた。


だから、残念なのだけど、

そういう人たちの言うことは聞く必要はないという結論に達しました。


僕がすべきことは、したたかに、狡猾に、彼・彼女たちの言うことを無視したり、無力化することで、「そうじゃない人たち」に支配されないように、戦うべきなんだなと思いました。


どこにでもそういう声の大きく、口が立つ(ように見える)人がいます。

彼・彼女たちは、僕のような声が小さく口が下手な人間には天敵なのです。

 

なんでしょう、理想的な共存とはほど遠いですが、僕が現実世界でうまく人とやっていくための共存とは、「そうじゃない人たち」と害がない程度に適度な距離を保つというところでしょうか。

 

もちろん、大切な人は大事にしながらという前提ですが。

 

今日はこのへんで

それでは

5/7

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5/7

手書きの字ってのは、手書にしかない、いやし(漢字が書けない)のようなものがあって、「あって、」じゃなくて、「あるような気がします」ですね。うん。その、なんというか、パソコンで打った字は、パソコンに合わせたペースで事が起こってくるような感覚があるんですね。

いかがでしょう?スマホならスマホガラケーならガラケー、これからなら音声入力もあるんですかね。この文章は、スタバのレシートの裏に書いた字を、MacBookで打ち換えているわけですけども、ちょっと、普段のブログと違いますね。そういう文章、文体の違いが楽しいんですよね。

もうスペースがあと少しになってきたのですが、その、ほんと、僕はこんな感じで、自分の感じていることを文字を起こすのが楽しくて仕方ないんだなって思います。フツーの会社員をしながら、自分の文章、文体、考えを極めていきたいんだろうなって思います。

うん。それでは。

 

✳︎だいたい手書きの文字のまま書きましたが意味の通りやすいように多少修正しました。

疲れていると生きているのがしんどい

 

ええ、まぁ、タイトルの通りなのですが、特段述べることもないのですが、聞いてください。

 

その、遊びつくして疲れたんです。

疲労です。

 

そうなるともう、何もしたくないんです、わたくし。人と話そうが、テレビをみようが、本を読もうが、スマホでなんj(野球ゴシップサイト?)をみようが、ダメなんです。

 

何もしても、疲れていて、頭に入ってこない。

 

この、疲労した時の、己のポンコツっぷりったらどうしようもないんです。

 

しんどい。

 

なんなんでしょうね。早く寝ればそれでおしまいなのですが、食べたばっかりで寝ようにも寝れないわけでして。

 

そんなんあなたの知ったこっちゃないですよね。はい。よく分かります。だから私はこうして、なんとか寝るまでの時間を過ごそうして、このしょうもない文章を書いているわけであります。

 

ええ。

たまにはこういうくだらないのも許してくださいな。(いつもですかね?)

 

そんじゃあ、まぁ、今日はここいらで。

 

さようなら

ごきげんよう

 

下腹部を襲う、人としての尊厳の危機

 

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大阪の街中を交際相手と歩いておりました。休日のなんともまぁ、至福のひと時であったのですが、人生は諸行無常、塞翁が馬ということで、非常事態が私に訪れました。

 

本町から中之島を抜けて、南森町にある大阪天満宮のすぐそばの繁昌亭という落語の寄席があるところに向かっていたところ、下腹部に激痛が襲いました。

 

教養と見識のある紳士・淑女のみなさまであれば、私の身に何が起きた容易に察せられることか思います。

 

おそらく昨夜の鳥の刺身か、昼食のカレーのスパイスが原因かと推察されますが、それはもう立ち所に不自然な姿勢を取りながら、歩を進めたわけでございます。

 

すぐ近くにコンビニもなく、さっと入れそうな駅や商業施設もなく、この世にはこんなにも便利な所は存在しないのだという事実に私は絶望しました。

 

ちなみに、フランスのパリを旅していた時も同様の事件が起こりました。パリの街中をもぞもぞしながら近くの洒落たカフェーに入りまして、便利な所を貸していただけませんか、とお願いしたことがありまして、それが走馬灯のように思い出されました。

 

ちなみにちなみに、その時は店員から拒否をされるというアジア人差別を受けたのですが(もちろん冗談ですよ)、

 

「いくらだったらいいんだい?」とアジア人らしく?お金を払ってなんとか貸してもらいました。

 

話は戻りまして、結局のところ、下腹部に激痛の走ってから1キロほどもぞもぞしながら(距離感は個人的な感想です)、ファミリーマート南森町南店に駆け込み、事なきを得ました。ありがとう、ファミリーマート南森町南店。

 

落語は結果としては、下腹部の激痛のおかけで半分ほどしか鑑賞できませんでした。交際相手はおそらく心底失望し、心の中で私のことを「◯んこマン」とでも呼んでいるでしょう。

 

みなさん、お腹の痛みには注意しましょう。下腹部のテロはいつ起きるかわからないので、常に便利な所の場所を把握しておきましょう。

 

それでは

 

本の読み方が変わってきました。

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本の読み方が変わってきました。

 

すこし前までは、ビジネス書とか実用書というか、知識をつけたりですね、要は役に立つかどうかを重視して本を選んでましたね。

 

なので、小説をまったく読まなくなりました。

 

小説というのは、仕事に役に立たないし、新しい知識を学べるわけではないし、何の意味があるのだろうと思ってました。

 

2年くらい前から考えは変わりまして、文体とか文章に表れる息づかいみたいなものに魅力を感じるようになり、小説の方が読みたいと思うことが増えました。

 

 

ですがですが、とはいっても、刻々と変化していく時代に追いついて、追い抜かしていくためには、フィンテックやらイノベーションやらのビジネス界隈も理解する必要もあるなと思います。(何もわかってない)

 

要は、バランスか大事ですね。

いささか、ざっくりすぎるまとめですが。

 

 

さて、ちょいと文体についてお話しさせてもよろしいでしょうか?

 

まぁ、イヤという権利はみなさんにはありませんが笑、お付き合いください。

 

仕事で工場に行くことがありまして、工員の人たちが情報を共有するための連絡ノート(本当に手書きのノートです)が置いてあったんですね。

 

そこに工場のエライ人から若手の工員にへのお怒りのお言葉が書いてあったのですが、その中身をちょー簡単に要約すると、「失敗ばっかりしやがって、仕事なめてんのか、ボケが」という感じでした。

 

当事者としてはヘコむだろうなという内容でした。が、そこに漂っているエネルギーというか、罵詈雑言の生命力というか、感情をむき出しにしているところに何か惹かれるものがありました。

 

そこに人が生きていて、何かを想いを抱えながら、その一部を吐きだそうとしている。だけれども、文章を書くことに慣れていないのか、不器用さというか、怒りだけしか伝えることができない。

 

小説とかきれいにまとまった文章の良さもあるのですが、こういう現実世界の、リアリティのかたまりというか、人の存在が感じられる文章にも魅力を感じます。

 

なので、昨今のフェイスブックにあふれている思いの丈がつまった投稿を閲覧するのは、僕の趣味の一つでもあります。いささか性格はわるいのですが。

 

今日はそんなところです。

ご静読ありがとうございました。

通勤電車に乗っています

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(画像はあくまでイメージです)

 

高校生の時に通学をしていた電車に乗っているわけなのですが、自分の通っていた高校の生徒が同乗しているわけです。

 

その高校の生徒は、なにかのテストがあるようで一心不乱になにかを書きとめていたと思えば、英語の単語帳を取り出して暗記にいそしんでいたりします。

 

あまり生命力のある目はしていないです。死んだ目というやつです。

テストテストテスト!

偏差値!偏差値!偏差値!

 

ああ、自分もこんな感じだったな、という思いがこみ上げてきます。

 

 

他にも、妙な匂いを放つ作業着土木関係のおじさんや、わずかな席のすき間にでも割り込んで座ろうとする図々しいおねえさん(見た目は控えめ)などのおなじみメンバーがそろっているわけです。そりゃみなさん歳をとられてますが。

 

僕が通っていた10年前と多少の人員も変わっているものの、満員電車とは言えないが、それなりの混み合いのある風景が広がっています。

 

その「相変わらず」ということに、すこし安心感を覚えましたね。物心というか、自分の周りを観察してきちんと認識するようになったこの10年ですら、いろんな物事が変化しています。

 

昔は、新しいものや変化に、目を向けることが多かったのですが、この頃は変わらず存在しているものに関心が行くようになりましたね。

 

それくらい多く物事が変わっていくし、失われていくわけです。

 

そんな感じで、ノスタルジック、感傷的な、気分にすこしなっております。

 

今日はこのへんで

ごきげんよう