とっても眠い@インディア

 

おはようございます、日本のみなさん。

 

僕は今、インドのインディラ・ガンディ空港というところにいます。

 

飛行機が、5時間遅れという、ちょっと意味がわからないくらい遅れが発生しています。

 

21時発だったはずなのに、2時に出発。

 

いったいどういうことなんだい?

 

「インドでは何が起きても驚いてはいけない」って死んだ兄さんが言っていたなぁ。ええ、そんな兄弟は僕にはいないけど。

 

とにかく眠い。

 

なお、この投稿自体は電波につながったあとにしています。

 

 

僕の今後の仕事について書いておく。

 

インドの支店のみなさまの管理職的なポジションをすることになるのかもしれない。

 

どうなるかわからないけれど、僕の先輩は明らかに、インドの支店のみなさまを管理している。今後、それに準じることをするようである。状況から推定するに。

 

先輩をみていると、指示はするし、相談も受けるし、あるまじき行為があれば叱責する。これはまごうことなき管理職。

 

今まで管理職どころか、先輩になった経験すらほとんどないので、これは有難いチャンス。

 

その、平社員の根性というのは、いつもたいてい先輩や上司、会社役員の意思決定に対して、ああだこうだ言うもので、立場が変わればいくらか見えてくる景色も変わるだろうから、一度はやってみるのもわるくないかなぁと思う。

 

まぁ、それまでに当社の社員としての資格なしとの判断を頂戴すれば、私の首はガンジス川のあたりをさまようことになるでしょう。

 

その先輩は給料の管理も人事権もある程度持っていらっしゃるので、インドスタッフのみなさまの先輩に対する態度は、畏怖をともなったリスペクト。

 

その先輩についている、私も同様に、そういうリスペクトのまなざしを受けた。「ああ、世の管理職の方々はこういうおもてなしを受けているのか」と。

 

そういうまなざしは、一人の人間としてリスペクトされているのではなく、役職にそなわっている権力に対してだろう。すべてとは言わないがそういう側面は強い、と僕は考える。

 

そこに甘えて、それぞれの人たちへのリスペクトを忘れると、人生の後半、つまり老後に大きなツケが来るのだと思う。

 

人間として尊重されていることと、権力が尊重されていることは、混じり合っているけれども、後者の要素でリスペクトされている場合には気をつけなくてはならない。

 

まぁ、僕の一つの、人生観みたいなものです。

 

1週間、インドにいて、ちょっと脳みその回路が英語風になったからか、文体がすこしいつもと違うような気がする。

 

 

 

 

 

インドより、手帳を使い始めた話

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特に意味はないけど、富士山です。

 

この写真を撮ったあと、飛行機を乗り換え、インドにやってきました。

 

転職を決めて以来、なにかと忙しくて、走ってたら、いつのまにかインドにいた。そんな感じです。

 

何かとやることが多くて、消化不良気味です。 

 

あれもこれも、どれもこれも、何かと中途半端で、一体なにをしているんだろうと、時々思います。

 

といっても、その考えがよぎるのは一瞬で、また、すぐ、やらなくてならないことに戻る。

 

そんな生活を続けていました。

 

それで少し、きちんと、あれやこれやを処理しながら進みたいと思うわけです。

 

これから僕は何をしていこうか、と。

そもそも今日は何をするのか。

今日はいったい何をしたのか。

 

 

そういうのが、頭に残らないまま、時だけが通過していく。そんな感覚がありました。

 

 

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ということで、手帳買いました。

 

2014年以来の手帳です。もっぱらGoogleカレンダーで管理してました。まぁ、これからも並行して文明の利器は使いますが。

 

なんでしょう、頭を整理するためのツールとして、手帳を使うというかんじですかね。あるいは、記録を残すためだったり。

 

書き出して整理するというのは、自分の考えを明確化することもできるし、書いたら予定としてしっかりとこなす意識が働くんですよね。あくまで当社比ですが。

 

なんというか、声に出したり、文字に起こしたりしないと、頭がしっかりと働かないタイプの、脳みそをしているんです。

 

そういう脳みそと付き合っていく手段としての手帳なんですね、ええ。

 

 

うん、まぁ、今日はそんなところです。

それでは

 

 

 

オンライン英会話やってます。

 

京都のランチはなぜこんなにも高いのだろうか。

たんぱく質と野菜と主食をバランスよく摂取するためには、800円代ですら、なかなか難しい。

 

インフレなのか、インフレなのか、それとも元々、物価が高いのか、、、すいません、少し取り乱しました。

 

さて。

 

英会話やってます。

スカイプで。

DMM英会話です。

 

月に5980円で、毎日25分英会話ができます。

 

 

僕はインド人の英語を聞き取り、会話を成立させるとことを目的にしています。

 

なので、インド人🇮🇳とかパキスタン人🇵🇰、バングラデシュ人🇧🇩、スリランカ人🇱🇰のような西アジアの人々と話しています。

 

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そのほか、

 

テキトーにユーチュブで英語音声の動画を流したらりだとか、

 

できるだけ英語に慣れ親しもうとしています。ほんとはブログも英語版も作ろうとするのも考えています。

 

個人的な問題としては、話せるか話せないかと言うと、話せるレベルではあります。

 

ですが、スラスラと滞りなく話すレベルではないです。詰まります。でも拙者には高いレベルを求められています。

 

ネイティブと話しても、遜色なくみたいなやつ。

 

 

 

まぁ、ちょっとやそっとで、レベルは上がりません。毎日頑張るしかないわけです。英語レベルというのは、青天井ですので、なかなか大変です。

 

本格的に向上する良い機会ではあります。

 

今日はそんなところです。

 

ではでは

 

老いていくのがぼんやりと恐いなぁという話

 

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けっこう老いていくことに、怖さがあります。

 

いろんな場面で、40代後半を過ぎたあたりの人たちを見ていると、認知能力や身体機能の低下がどうしようもなく、現れてくるのだなということです。

 

まぁそもそも、先に、30代からの老いというものを迎えるのですが、けっこう、今の延長線上のなにかであるという感覚的な安心感がこちらについてはあります。

 

 

40代後半から50代の老いをみると、完全なるおじさんと化していくのは、まぁそういうものだから仕方ないかなとは思います。

 

僕が特に恐れているのは、自分の経験してきたパターンでしか物事を考えられなくなること。人の話を無自覚的で聞こえなくなったりすること。細かい字が読めなくなること。

 

もちろん、その年代になっても、僕みたいなボンクラよりも、はるかに頭が冴えわたる人たちは存在します。

 

ただ、一般的な傾向として、僕が見聞してきたところでは、脳や身体機能が低下して、確度のある意思決定ができていなくなっている、そんなふうに感じる人が時々いました。

 

別に今の日本社会では、年を取った人の経験則には権限を与えるべきという社会的合意がある程度存在するので、感覚がズレていても、それはそれで物事は進んでいきます。

 

ただ、自分が初老のような年齢に達したときに、しっかりとした認知能力があり、時代的・社会的な流れをくみ取った意思決定をしていけるかどうか、僕はとても不安なんです。

 

今僕が言っていることは、けっこうビミョーなところだと思います。意思決定は誰にだって、うまくいくとは限らないし、失敗することもあります。

 

それが年をとって、認知能力が低下してきていることだったり、感覚がズレてきているからだというのは、とても数値化できるものではないと思います。

 

それはまぁ、自分の中でのちょっとした確信のようなものです。あるいは勝手な僕の思い込みです。

 

以下のような能力が年をとるごとにむずかしくなっていくんじゃないかなという気がするんです。

 

・自分が経験してきたものを客観視する能力

 

・感情的な反応と実際に起きている事実を切り分ける能力、

 

・自分の中の常識と目の前にいる人たちの公約数な常識を切り分ける能力

 

 

こういう能力というのは、お金になるかどうかなんて知らないです。ですけど、社会生活を送る上で、人と関わっていく上で、重要なものだと僕は思っているんです。

 

それらが初老になると、できなくなって経験と感情ばかりで、なんでも語るおじさまになることを僕は恐れています。

 

というまぁ、とりとめのないお話でした。

 

ではでは

 

兵庫県について

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昨日、テンションの高い文章を投稿していて、この件の本題について、語ることはありませんでした。

 

僕は今、わけあって、兵庫県の歴史や文化についていろいろ調べています。なんというか、この県については、ただただ羨ましいなと思うわけです。

 

どういうことかというと、京都にしろ、大阪にしろ、歴史の中心に存在したという事実は、脈々と次の世代受け継がれていくのだなということです。

 

兵庫県でいえば、神戸の発展や、有馬温泉の歴史やら、阪神工業地帯の発展やら、いろいろあるのですが、歴史の中心に存在したということ。

 

鎖国と開国やら、豊臣秀吉の湯治やら、メジャーな日本史に一枚噛んでいるということ。

 

対して、僕の地元は正直、歴史の中心になんて存在したことはなく、辺境の地として、かろうじて、地元の町が編纂した読み物としてフレンドリーとは言いにくい郷土史があるのみ。

 

そういうわけもあって、兵庫県について知れば知るほど、いかに歴史の中心にいたことを感じ、中心にいなくてとも、メジャーな歴史の流れとのつながりがたくさんあるということ。

 

たぶん、僕は、そういう世の中の流れの中心とか、メジャーなものとのつながりに対して、ひがみや憧れがあります。

 

そしてたぶん、自分には関わることのできないものとして、どこかずっと今までの人生であきらめてきたようなところがあります。

 

まぁ、なんらかのしかるべき努力をすれば、その中心に関わることはできるのですが、どこか自ら距離を取っているところがあります。でもやっぱり、興味はずっとあるんです。

 

そういうめんどくさいところに、いつも自分のポジションを置いているんだなと、この頃気がつきました。

 

だから、これからどうするということはないのですが、当面僕は、こういう中心に関わったり、距離を取ったりということを繰り返すのだと思います。

 

癖みたいなものでしょう。

 

今日はこのへんで失礼します。

それではまた

兵庫県について書きはじめたはずなんだけど、深夜のテンションでエモみがあふれてしまうのであった

 

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毎日、まーいにち、僕らはテッパンの!
こんばんは、深夜のテンションです。

ことのほか、更新は毎日していないのにも関わらず、私のブログを毎日のように楽しみしてくださる方々がいるようで、期待に応えないわけにはいかないわけです。

最近、ちょっと毎日のように、何千字も字を書いているので、文章を書くこともさほど苦労もしないので、書くことができています。南禅寺は京都のお寺。

はい。しょうもないダジャレでした。
おじさんになったからではありません。

僕は小三くらいから、ずっとこんなことを言っていたので、そこはお間違いなく。
というか、おじさんになることは、ある意味児童化、幼児化することでもあるような、ないような。

さて、すこしおじさんについて話題が出たので、それについて書いてみようと思います。

 


正月に実家に帰って、すこし思うところがあったわけです。

20代の後半にさしかかると感じることは、自分の年齢がちょうど親が自分をこの世に引きずり出した時期と同じ年代に入るわけです。

もっとわかりやすく言えば、母ちゃんが僕を産んだ年と同い年。あるいは、母ちゃんが僕を産んだ年を追い越してしまった。そういうもの。


そして同時に、父と母が、ちょうど自分が生まれたときのじいさんやばあさんと同じ年齢になるということ。ザ・ジェネレーションズ。

人が老いていくプロセスをじっくりと観察してきたわけです。この点に関しては日々の生活では忘れがちではあるし、別に友達ともそんなに話題にのぼることもないですが、(そんなことよりも誰かれの結婚や出産の話題に忙しいですから)

まあ、こういう話は、長くなるのであれですし、僕はいささか、眠たくなってきたので、さっくりと話を済ましますと、50代になるのがこわいなということ。

うちの父さんと母さんをみていると、息子というはた目ではあるのですが、なんとまあ、幸福そうなこと。

子どもはほとんど独立したし、じいさんもばあさんも衰えてはきているのですが、なんとかまあ、比較的、手をかけることなく自分たちで生きてくれている。

毎月のように旅行に出かけ、毎日のように酒を飲んでいる。
そんな、50代に自分はなれるような気がしないのである。

でも、まあその幸福のバランスも危ういところで成り立っているのだけど、だから余計にありがたみを感じて幸せそうなのかもしれない。

50代をみていると、なんともまあ、人生の積み重ねと、運命のバランスと、あとはいくらかな幸運と、そういうもので、人柄がどうしようもなく現れてくるんだなと感じます。


そう、なんというか、この正月で感じたのは、いくらかの逆転なり、荒波なり、そういう確変要素はあるのだけれど、長い目でみると、人生はどうしようもなく積み重ねなんだなあ、ということ。

それに気づいて、わしはもう、わしはもう、、、
すまない、精神が急に70代になったようだ、すまない。


なんというか、がんばっていきていくしかなんだな、ということです。
ではでは。
おやすみなさい。

京都に住んで1ヶ月、感じたこと

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文化的な都市だなということ。

 

えっ?改めて言うまでもないことを、ってやつですかね。

 

お寺、神社的な、デントー的な、ザ・日本的な施設については言うまでもないことです。

 

僕が気になったのは、河原町を出たあたりにいる、路上ライブをしているシンガーソングライターとか。

 

「あなたのインスピレーションで絵を描きます」とか。

 

なんだかよくわからないデザインアクセサリーを売っているアーティストとか。

 

己の才能一つで、人生を生きているのが、なんともリスペクトすべきだなと思うわけですが、そういう人たちを文化として受け入れる雰囲気が京都にはあるなぁと感じました。

 

デントーもあるけれど、意外とそういう新しい試みをしている人が京都にはたくさんいるな、と思うんです。とりあえず面白いことやってみなさいな、とような懐の広さを感じます。

 

そして、そういうアーティストが、成功すればそれは京都らしさに加えられるような気がします。「生き残ったら京都として認めてやる」みたいな。

 

京都へようこそ、京都を舞台に頑張りたまえ。もしうまくいったら、京都発として認めてやる。それまで外様だからな。みたいな。

 

ああ、何も根拠はないです。完全に主観です。

本当になんとなく河原町やら、烏丸やら、祇園やら、を毎日歩いていて、ふと思ったことなのです。

 

京都には、なんとなくアート的なものを持ち込んで一旗あげてやろうとしているショップやらブランドやらがそこはかとなく存在しています。

 

デントー文化を借りたりしながら、自分たちのテイストを出そうとしています。

 

そういう感じけっこう好きです。このなんとなくの主観が正しいかどうかとか、具体的な例を今後探してみたいと思います。

 

なんともざっくりとした京都について所感でした。

 

それでは