昨日の自分を超えていけ

強めのタイトル。

諸般の事情があって、今年の秋にマラソンに出るのですが、しかもハーフマラソンという比較的、本格的な距離に挑もうとしております。自分から出たいと思ったわけではありません。そんな強靭な精神をわたしは持ち合わせてはいません。

そういう試練やミッションをたまにやってもいいんじゃないかなと思った次第でございます。きまぐれです。まあ、誘われてしまって、場の空気やそんなこんなに押し切られてしまったわたしくでございます。

生きていくにはそういうことも必要なのじゃ、とおのれを言い聞かせたわけであります。

さて、そうしてわたくしはマラソンという、自分自身を好き好んで虐げるというイベントに参加することになったわけですが、ただ、もうかれこれまともな運動をしておりませんで、当初1キロを走るだけで精いっぱいでした。

息はあがるは、体は痛くなるは、で、もう大変。
いかに自分の体を長年粗末に扱ってきたかということが身にしみました。


はい。
時は流れ、


だいたい2キロ、3キロくらいであれば、「まあ走れなくはない」という程度になりました。しかしながらその程度の状態がかれこれ3ヶ月ほど続いておりまして、そろそろ何かしらのブレイクスルーをおのれに課題として与えなくてなりませんでした。

最後には20キロを走るわけですし。

ということで、今日は、10キロを走りました。

「アキレス腱が切れるんじゃないかな」
「もうしんどいからやめておこうよ」

そういう自分の心の声を無視するのがたいへんでした。


そういうわけで、自分が走ることができる限界を超えたわけです。
(といっても半分以上は歩きました)


なんというか、「昨日の自分を超えていけ」とか「人生日々成長」とかよく言えたもんだなとわたしは思います。僕には無理です。自分の持っているものを超えるということは、それなりの頑張りや無理が必要ですし、意志やエネルギーも必要ですので、

まあ、3ヶ月〜6ヶ月くらい、いや余裕をみて1年くらいの期間で何らかの変化(成長であると望ましい)を自分の中で実感できたら、それで十分すぎるんじゃないかなとおじさんは思うわけですよ。

それくらいのペースで僕は僕なりに今日も生きていくわけです。

ちょっと今日は説教くさかったな。

じゃあね
それでは

結婚をしたいと思うようになった

  

「結婚をしたいと思うようになった」

 

結婚はしたいと思うようになった
結婚はしてもいいと思うようになった
結婚をしてもいいと思うようになった

 

と少し変えるだけで、微妙に漂う、意志と積極性が変わってきます。

 

「結婚は」という所からはじめると、どこか結婚を他人事のように感じられるところがあるし、「してもいい」という言い回しは、どこか仕方なしにというか、上から目線のように感じられるところがある。

 

なので、私が、「結婚をしたいと思うようになった」というのは、結婚さんをリスペクトしていて、とても積極性があって、意志を持った言葉だと思います。

 

不思議なもので、
学生の頃には、


「結婚なんて、自分の自由を奪われるものだ。子育てに時間をとられる人生なんてナンセンスだ」

 

そんな考え方をしていた人間が結婚をしたいと言い出すなんて。

 

人生というのはよく分からない。
時の流れというのは恐ろしい。

 

なんでしょうね、底知れぬ意志のような、覚悟のようなものに結びつけられたように感じられる時もあります。まぁ感覚的な話なんですけども。


それまでは、「結婚をした方がいい」「結婚をするべきではないだろうか」などという義務感、焦燥感、周りからの期待に突き動かされていた部分はいくらかあっただろうし、

得てして、そういうどこか自分の意志が中途半端な時は、何かがうまくいかない。自分を取り巻く何かが事を運ぶのを阻止しているように感じます。自分自身もどこかうまくいかないように無意識に行動しているように思える時もあります。

まあ、よくわからんですがね。



なぜ、結婚をしたいと思うようになったのか。

何かきっかけがあったとか、論理的でストーリー性のある話ではないのですが、いろいろあって、そう思うようになりました。

 

それは、たとえば、

サラリーを定期的に受け取るという生き方(いわゆるサラリーマンです)のだいたいのパターンがわかってきて、その為に身を粉にしたり、全身全霊を捧げることに違和感を感じたこと。

今こうして書いているように、自分の感じたことや自分の中にある感覚のようなものを(主に文章で)表現することが自分の一番やりたいことだと自覚したこと。

うん。これらはたとえとしてわかりにくいな。


うーん、そうですね、

自分のじいちゃんとばあちゃんがもうすぐ死ぬんだと感じたこと。
自分の父ちゃんと母ちゃんもだんだんと年をとっていくと実感したこと。
赤ん坊、幼児、児童の放つ生命力のようなものにとても惹かれるようになったこと。
ぐどいですね。子どもっていいなって思ったんです。

あとは、
結婚はいいぞっていう人もいれば、
結婚は人生の墓場っていう人もいたり、

その結婚という未知の世界に、まったくの新しさに面白みを感じってところですかね。


いろいろと理屈をこねてみましたけど、
うーん、やっぱり交際相手も要因ですかね。

いっしょに生きていくことを考えたときに、面白そうだと思ったし、

結婚的なめんどくささも、「この人と一緒にいて起きることだったら、仕方ないでしょう」と妙に覚悟というか、腹の括りのようなものを感じたんですね。


まあ、来週には交際関係が破綻している可能性もゼロではないんですけどね。

どうなるかわかないけれども、この人やっていけなかったら、もうどうしようもないんだろうなって感じですかね。


そういう上記のですね、いろんな要因からですね、結婚をしたいなという気持ちがしっかりと湧いてきたわけです。


そんなかんじです。
今日はこのへんで
それでは



 

 

 

 

 

スマホずっと触っていると目が疲れる

 

当たり前の話を、すごいこと言ったような雰囲気のタイトルです。

 

はい。

 

このところ、疲れています。

 

季節の変わり目的なものもありますし、ついついスマホを触ってしまって気が休まらないのもありますし、労働のストレスもあるのでしょう。

 

そして、そもそもあまり体力がなかったりするのもあったり、ボーっとしていても良い場面でもついつい考え事をしてしまってこんなブログを書いてしまったりしまう。そんなこんなで、いつもなんとなく疲れている状態が続いている気がします。

 

 

現代の情報社会においては、ボーッとする、魂を抜く、オフになるみたいな、ただ時間をムダに過ごしているような行為さえ、かえって価値が上がっているような気がします。

 

そういう行為に実は意味があるというか何というか。

 

その、映画を見るとか山に登ったりとか、何かに打ち込んだり、集中をすることによって、インターネット上や電子上の関わりから、「意識的に断絶する」という行為が大事だなと最近思います。

 

 

そういうわけで、いかに空白を作るかが大事ということで、フリック入力を終了し、電車の上で魂を抜いた時間を過ごしたいと思います。

 

マヌケな顔をしてるんだろうな。

それでは

(n-1)回目の夏

 

特に話すことはありません。私は疲れておりまして何も書きたいことが思いつかないのです。いえ、その、でも、こういう時に書く文章というのは、一体どのようなものが飛び出すのか。それはそらでなかなか楽しみがあるものです。

 

それではですね、今回のタイトル、「(n-1)回目の夏」についてお話しさせてください。

 

ついこの間、冬から春になって、暖かくなったなぁと喜んでいたのもつかの間、今度は春から夏になろうとしております。この所、ムダに暑く、長袖のシャツなどを着ているのが苦痛で仕方ありませんでした。

 

私の属する弊社としましても、個々の社員などは、7月並みの暑さということだから、クールビズを前倒ししてはいかがだろうか、という声が上げるほどの汗ばむ陽気でした。

 

規則は規則だから、私以外私ではないから、特にそんな例外的なことはありませんでした。スーツにネクタイ、豚に真珠、という状況は続くわけです。(いらないネタを挟んで話がややこしくなってますね)

 

そうやって、私の(n-1)回目の夏がやってこようとしているわけです。えー、私としましては数値は27が代入されます。1年間海外にいたので差し引いて、26回目の夏。

 

甲子園の伝統のある強豪校ですね。なんというかもう26回も夏を過ごしているというのは、なかなか不思議な気分になります。ちょうど仙台育英と同じくらいです。

 

なんの話だって感じですね。

そんなところです。

 

今日は打って変わって、雪でも降るんじゃないかというくらい寒かったのでした。(実際は最低気温13度)

 

それでは

 

これが最後の旅行なのかもしれない

 

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大学のとき、自分の感じたことをできるだけ言語化しない人がいました。自分の身に起きた出来事にたいしてどんな解釈もしない人でした。

 

僕は自分の感じたことをできるだけ言語化したいタイプなので、彼の言ってることが正直わかりませんでした。感じたことを言葉にすることで、人間として何らかの成長できると考えていたからです。

 

でも、その今回、彼の言ってることにも一理あるなと思った次第です。

 

 

じいちゃんとばあちゃんと父ちゃんと旅行に行きました。

 

近所の人が死んだとか、親戚の人の病状とか、知り合いの噂話という、まぁよくある田舎あるある的な話題のテンプレート。風呂に入って、酒を飲み、夕食を取ながら酒を飲み、また風呂に入って寝る。

よくある旅行の風景ですけど、
印象的なシーンがありました。 

 
お風呂に入ったときに、

 

八十代後半の祖父と、

五十代後半の父と、

二十代後半の僕が、

 

(具体的な年齢を書かないのは黒魔術を避けるため)、一緒でした。

 
湯舟に使っているとき、特に何も話さないんですね。

もう、一緒に旅行するのは、これが最後かもしれないし、まあ、そうでないかもしれないんですけど、それなりの覚悟をもって、この旅行に来ているはずなんですけど、特に何も話しませんでした。

「あったまる(温まる)な」
「そろそろ上がるわ」

話したのは、この二言だけでした。

この、特に何も語るわけでもなく、温泉が湧いてくる音と他のカスタマーの体を洗う音しかない空間がなんとも印象的なのでした。

その、このシーンについて、何と言っていいのかよくわからないんですね。

でも下手に意味や解釈を与えないでおいた方がような気がして、もやもやしていたときに、大学のときの言語化しない彼を思い出したんですね。

うん。

ぼんやりとした話ですが、思い出はプライスレスなんでしょう。

 

テキトーにまとめすぎたな。

今日はこのへんで
それでは

 

博物館に行ってきました

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今日は金曜日の夜。特に何もすることもなくまったりと過ごしております。


今日のこの文章は、音声入力で書いているわけですけどもまぁ、話し方としては、そんなに文体と変わらないわけですね。でもなんというか、音声というのは、ある意味、一発勝負ではありますので、どこかぎこちなようなものが文章に現れてしまうわけです。


音声で書いてみようと言うことを決めたんですけども、特に何かテーマがあるわけではないので、ちょっと最近思ったことを1つだけ書いておこうと思います。

 


Twitterの140字に収まるような、そんなしょうもない気づきですけども、まぁそういうのもあっていいでしょう。お付き合いください。


この前博物館に行ったわけですけども、はい。なんとなく行きたくなったんですね。そのなんとなくは何なのかというのは、特に疑問を挟んでいただく余地はございません。自分でもよくわからないのです、こういう衝動は。


その、県立博物館というやつですね。そこで、地元の歴史のようなものを、一通り見たわけですけども、自分が高校生の時に習ったような日本史出てくる品物が、文物がたくさん並んでいたわけです。


その高校生の時にも一度来たことがあって、その時は「本当に本当につまらないなぁ」「こんなの見てになるのだ」っていう気持ちで見とったわけですけども、今回はすごく楽しかったですね。


何が楽しかったかというと、そこかしこに置かれてあるものの歴史と、自分が今生きている土地や人やらの、なんというか……自分の今の生活とのつながりを感じたりだとか、


全く別のところで知った物事がつながったりするということに単純に驚きがあったんですね。


そーゆー情報の情報とつながってしまう楽しさというのは、自分の中である意味、趣味のようなものなんだなぁと気づきました。


それはおそらく、旅行が好きなことだったりだとか、近代建築が好きだったりだとか、につながってくるんですが、なんですかね、歳を経るごとに人生というやつは意外と楽しいもんだなぁと気づかされるわけです。


今日の労働ではなかなか辛いことがあったのですが、こーゆー楽しさへの気づきようなものを書くと、日中のしんどさがあったとしても、今日という一日の中で何かを残せたという事実に、いくらか救われるような気持ちになりますね。

 


「〜ですが」「〜けれども」「〜なので」が多いですね。癖ですね。


今日はこのへんで
それでは

 


 

そうじゃない人たちとの戦い

 

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どうも。


話のつながりとしては、以前に書いた話のつづきなのですが、

 

gucci2017.hatenadiary.jp

 

コミュニケーションの作法が違う人たちと、
いかにうまく共存するか、
理解し合えるようにするか、

という話です。

 

 


そういうことを大事にしていたのですが、
どうも、うまくいかないし、
僕ばかり損をしている。

と感じることが多い。❇︎あくまで個人の感想です)



その、なんというか、気づいたことがありまして。

 

わかり合おうとしたり、相手の考えを理解したり、意見を交換したり、そういう双方向性のあるコミュニケーションを取ろうとするのは、あくまでコミュニケーションの作法の一つ。


そうじゃない人もいるんだなってこと。

 

そうじゃない人たちに理解を示そうとすると、
そういう善良さにつけ込まれて、

(こちらが善であるという前提なのは問題かもしれない。なぜなら、あちら側すればこちら側が偽善もしくは悪かもしれないからだ。)

黙って言うことを聞け。
お前の考えには価値がない。
私の考えが正しい。

そんな感じで、

あっという間に、


そうじゃない人たちに、使われたり、コントロールされたり、支配されたりします。

 

彼・彼女たちは、別にわかり合おうともしていない。自分の意見を通すことだけを考えている。

 

そういう人たちに僕がやろうとしていた、「一定の理解を示す」というコミュニケーションの作法は、どうも具合がわるい。

 

押し切られるし、

損はするし、

傷つく。

 

個人的に、ここ5年くらい、けっこう「そうじゃない人たち」に苦しめられてきた。


だから、残念なのだけど、

そういう人たちの言うことは聞く必要はないという結論に達しました。


僕がすべきことは、したたかに、狡猾に、彼・彼女たちの言うことを無視したり、無力化することで、「そうじゃない人たち」に支配されないように、戦うべきなんだなと思いました。


どこにでもそういう声の大きく、口が立つ(ように見える)人がいます。

彼・彼女たちは、僕のような声が小さく口が下手な人間には天敵なのです。

 

なんでしょう、理想的な共存とはほど遠いですが、僕が現実世界でうまく人とやっていくための共存とは、「そうじゃない人たち」と害がない程度に適度な距離を保つというところでしょうか。

 

もちろん、大切な人は大事にしながらという前提ですが。

 

今日はこのへんで

それでは